産業初期
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WW1中の試験迷彩。
自動車産業の黎明期
ガソリンエンジンによる自動車の発明は1886年頃、ドイツのG.ダイムラーとK.ベンツがほぼ同時といわれているが、当初は、主に「富裕層の好奇心の対象」として所領生産されるにとどまった。また、19世紀末の自動車生産は、部品を買い集めて、修理工場のようなところで車台(車体やエンジンを載せるフレームの部分)を1箇所に定置し、そこに部品を持ってきて組み立てるやり方、すなわち「定置組立方式」が中心であった。生産量もごく少数で、例えば1895年のベンツ(当時のトップメーカー)の年間生産量は135台に過ぎなかった。
このような「定置組立方式」は、20世紀初期(1913年)にフォードが有名な「移動組立方式」(ムービング・アセンブリーライン)による生産方式を確立するまで続くことになる。またガソリンによる内燃機関だけではなく、電気自動車(主にアメリカ)や蒸気自動車(1860~90年代のフランス・アメリカ)も顕在であり、1900年の時点では、ガソリン・電気・蒸気のうちどれが将来の本命になるかははっきりしていなかった。
次に、自動車のデザイン・製品技術の発達について見ておこう(詳細は、関(1980)第3章など参照)。初期の自動車メーカーは、技術的には、先行する馬車や自転車の影響を大きく受けていた。例えば、初期のガソリン自動車は、小さな馬車の後部か座席下にごく小さなエンジンをつけたもので、実際「馬なし馬車」(horseless carriage)と呼ばれていた。
現代の自動車にかなり近い形のレイアウトになったのは、1891年フランスのパナール・エ・ルバッソール社(Panhard et Levassor:馬車メーカー出身で当時世界有数の自動車メーカー)のモデルからである。この車は、「縦置きエンジンを車の前に積む」という、それまでにない画期的なエンジンであった。
この革新的レイアウトは、2気筒4馬力の、当時としては強力なエンジンの搭載を可能にした。エンジンが車体の前に出ることによって大型エンジンの搭載が可能になったことは、その後の自動車の進化によって決定的な出来事だったというよう(エンジンが座席の下にあるうちは、自動車の性能向上には限界があった)。この結果、パナール・エ・ルバッソール社のモデルは、1895年のバリーボルドー間約1200キロの往復ラリーで、約24キロの最高平均速度を記録した。
ちなみにこのレースは、蒸気自動車・電気自動車に対するガソリンエンジンの優位を決定的にしたレースとしても知られている。参加24台中完走はわずか9台だったが、そのうち8台はガソリン自動車だった。
また、「パナール方式」といわれたこのエンジン前置きレイアウトは、その後の自動車設計の標準形式として普及し、T型フォードの発売された1908年にはすでに、標準的なレイアウト形式として定着していた。さらに、1920年代には鋼鉄製の密閉式車体(従来は木製の車体)が登場し、現代の自動車の基本構造に徐々に近づいていく。
次に、自動車に組み込まれる製品技術・部品技術の変遷をみておこう(表3.1)。ガソリン自動車発明以前にも、蒸気自動車や電気自動車をベースとした製品技術の発展はある程度見られたが、今日の自動車にまで続く自動車技術の多くは、ガソリン自動車発明以降30年ほどの時期に集中していることが、この表から明らかであろう。
現在のガソリン自動車では当たり前の空気入りタイヤ、プロペラシャフト、アクセルペダル、スピードメーター、ショック・アブソーバ、バンパー、ヘッドライト、電動スターター、倍力装置付きブレーキなどは、いずれもこの時期に開発されている。製品イノベーションは参議用発展の初期に集中して起こる、という傾向はいろいろな産業でみられるが、自動車もこのパターンは明らかだといえよう。
こうした初期の自動車における基本設計と製品技術の変化を、旧ダイムラー・ベンツ社のモデルで確認しておこう。まず、四輪ガソリン自動車の始まりとして知られる1886年のG.ダイムラーのモデルは、文字どおり特注の馬車を車台にして1気筒462cc1.1馬力の小さなガソリンエンジンを積んだ「馬なし馬車」で、最高時速は16キロ、実用性には限界があった。ダイムラーの1894年モデルでは、エンジンは2気筒2.5馬力にまで拡大したが以前として座席下に閉じ込められ、最高時速は20キロに過ぎなかった。駆動力はベルトで伝えられていた。空気入りタイヤもまだない。
これが、1902年の「シンプレックス」モデルになると、エンジン前置きでシャフトより後輪へ動力伝達する、今日的な形式が採用され、空間的成約から解放されたエンジンは4気筒5319ccに拡大し、動力性能も40馬力、最高速度75キロにまで一気に向上した。タイヤにも空気が入った。しかし、電動スターターはまだない。1910年のメルセデスは、同時代のT型フォードとよく似たデザインとなる。1929年のメルセデス・ベンツニュルブルクはすでに電動スターターがつき、鋼鉄製の密閉式ボディが採用されている。最後に、1955年のメルセデス180モデルでは、フェンダー(タイヤの泥除けカバー)が車体と一体化し、現在の乗用車と同じ外観デザインとなる。このように、製品全体の基本設計様式(アーキテクチャ)と部品技術とは、お互いに影響し合いながら進化してきたのである。
初期の自動車産業は、いわば「多産多死」であった。1903年~26年の間に181社の自動車メーカーができたが、1927年(T型フォード最後の年)までにこのうち137社がすでに撤退したという(日刊自動車新聞社編『自動車産業ハンドブック』日刊自動車新聞社、参照)。アバナシーも、1909年に69メーカーあったのが、その後の7年で半分になったと述べている( Abernathy(1978))。
例
誰でもプロセッサを作ることはできるが、新しいISAを作ったからといって、誰もがそれを使ってくれるわけではない。使ってくれるためには、それをサポートするコンパイラやOSに加え、それをサポートするミドルウェアやツールセット、アプリケーションまでに至る、猛烈な手間とコストのかかるソフトウェア投資が必要になる。
しかもこうした投資は、継続的に行なわれなければ使ってもらえない。古くは68K、その後MIPSとかSPARC、PA-RISC/Alpha、その他……と多数のアーキテクチャは世の中に存在して、一時期はかなりの量のソフトウェア資産が存在したはずだが、現在ほとんど使われていないというのは、要するに継続的なソフトウェア投資に引き合う結果が得られない、と判断されてしまったためである。
RISC-Vの性能や採用はどこまで進んだのか
サンダース会長は「'80年代にはx86のCPUを作っているメーカーが15もあったが、現在生き残っているのは2社しかない」と述べ
900MHzの銅配線Athlonプロセッサのサンプル製造に成功!
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電気仕掛けの開花期!? 1980年代日本車のトンデモ装備
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人工皮膚・人工臓器
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曲面ディスプレイ
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