少ないサンプリング
代表性ヒューリスティクスの背後にはサンプリングの問題がある。私たちがマグカップやネコをカテゴリー判断する際に用いるプロトタイプは、きわめて多数のサンプルを観察した上で作り上げたものである。しかし、イタリア人とか、黒人とか、東大生を数百人規模でよく知っている日本人はごくごくまれだろう。そうすると、とても偏ったサンプルからプロトタイプが構成されてしまうことになる。当然それはもとの集団のサンプルの平均とは、大きく異なる可能性も高い。
サンプリングはこれ以外にも深刻な問題を生み出すことがある。一部の論者がよく主張することに、昔はよかったというものがある。その中でも、昔の母親は子どもの世話をきちんとしていたが、近頃の母親は自分の好きなことだけやって子どもを見ない、よって変なことをする子ども、犯罪少年たちが増えてきた(増えていない!)という話がある。
これについて、前にも述べた教育社会学者の広田( 53) は、おもしろい資料を呈示して反論を加えている。それは、一九五〇年に母親に対して行われた子どもの身売りについての調査である。この調査によると、子どもの身売りを全否定する母親は、全体の二〇パーセントしかいない。農村部に至っては、弱い否定(お金に困っていたら仕方がないというような)も含めると、子どもの身売りが可能と考える人は半数近くにもなる。子どもの世話をして慈愛に満ちているのが昔の母親だという前提に立てば、そうした反応は考えにくい。つまり「昔の母親はよかった」という前提が間違っているのだ。
こうしたことの背後には、サンプリングレベルの誤りがあると広田は述べている。つまり、昔はよかったということをメディアを通して意見できる人は、ごくごく限られた人、知識人、有名人たちであり、その多くはその時代であっても高いレベルの教育を受けられた、一部の富裕階級の出身である可能性が高い。そうした家庭では母親は家庭内労働以外をする必要がない、つまり主婦であり、家にいつでもおり、子どもの帰りを待っている。そうした家庭で育った人は、友人もそうである確率は高い。そして彼らは自分の周りだけからサンプリングを行い、自分とその周りの生活が一般的であるという誤った母親のプロトタイプを作ってしまい、それをメディアに載せてしまった可能性がある。ここではサンプリングのミスが起きているのだ。そして彼らの話を聞き、私たちは昔の母親はちゃんとしていたというような、誤った情報を含む代表例を作ってしまうのである。
参考
(53)
『教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み』広田照幸
出典