写像(mapping)
写像はアナロジーの鍵
アナロジーのかぎを握るのは、写像(mapping)と呼ばれるプロセスである。ここでは、ソースに含まれる要素をターゲットのそれに対応づけること、及びソースの特定の要素に対応する要素をターゲットに作り出すことが行われる。
電気回路の類推でいえば、ターゲットは電気回路であり、ソースは水流となる。ここで水の流れと電気の流れ、ポンプと電池などの間に対応づけが行われる。一方、ソースにおいて成立している、「ポンプの押し出す力が強ければ水がより多く流れる」という事実に対応するものは、はじめはターゲットの電気回路には存在していない。そこで要素を置き換えてこの関係を写像し、「電池のパワーが強ければより多くの電気が流れる」という関係がターゲットの中に作り出される。
構造写像理論
写像における三つの制約を提案する。第一の制約──対象の属性は写像しない。第二の制約──写像は一貫性を保ち、一対一の対応を見つけねばならない。第三の制約──高次の関係によって結びついている一次の関係を優先的に写像候補とする。なお、最後の制約は特別にシステム性原理と呼ばれる。
類推にこの三つの制約を課すことにより、写像の候補となるものが大幅に減る。特にシステム性原理は、写像すべき関係、対象を絞り込むため、強力にはたらき、さまざまな類推を現実的な範囲内で可能にするとされる。この理論は提唱者のゲントナーのグループにより、人間が行う実際の類推写像にも見られることがさまざまな実験を通して示されている。この後、構造的制約だけでは不十分であるという立場から、その他の制約も加えた理論が提案されている。
表象という観点から重要なことは、ソースという知識表象の構成についての仮定である。この理論はソースの知識は多くの要素を含むという意味でリッチな情報からなっているということ、またそれらがさまざまなタイプの関係によってきれいに階層化されていることを前提としている。
ソースのオンライン生成
ゲントナーの構造写像理論においては、ソースとなる知識の表象はきれいに階層化され、固定したものと仮定されている。しかし、本当にそうなのだろうか。
私は研究を始めたばかりの頃、小、中学校レベルの電気回路について大学生がどのように考えているかを調査したことがある。電池が一、二個、豆電球あるいは抵抗が一、二個ついたきわめて簡単な回路である。文系ではあるが非常に有名な大学の学生、院生にインタビュー形式で問題を解いてもらい、その答えを説明してもらった。結果は驚くべきもので、本当にできない。そういう部分もおもしろいのであるが、以下では彼らが説明に用いたアナロジーを中心に結果を述べてみたい。
自分の答えを説明する段階になると、ほとんど全ての参加者がオームの法則やキルヒホッフの法則に言及することなく、何らかの液体状のものが流れているという形で説明を行っていた。電池を増やすことはこの流れを多くし、抵抗や豆電球ではこれが滞るなどと述べていた。興味深いのは、抵抗における発熱を説明する際のソースの変化である。それまでは液状のものが流れているという説明をもっぱら行っていたのだが、抵抗と発熱という部分になると、流れるものを何か粒状のものに変更していた。
何のこともない調査なのだが、ここにはこれまでに述べてきたアナロジーの理論からすると奇妙な光景が見えてくる。参加者の多くは水や液体状のものが流れるというソースを用いていたが、そもそもそんなソースはあるのだろうか。ポンプと狭い部分を含む閉回路の水流システムなどは、ないとは言わないが、それを見たことがある人はほとんどいないだろう。つまり、彼らは経験していないことをベースにして、あたかもそれが目の前にあるようにしてアナロジーを行い、説明をしているのである。
もう一つの奇妙な光景は、簡単にソースを変化させるということである。ソースの変化は再写像というとてもコストのかかる計算を意味する。しかし、参加者の多くは発熱が絡むとすぐに液体の流れの類推から粒状の固体を用いたそれへと、何のことなく変化させている。むろん理由は簡単で、液体のものの流れが熱を生むというのは常識的に考えにくいからだろう。
以上のことからすると、リッチな情報を含み、きれいに階層化されたソースが事前に長期記憶に存在していたとは考えにくくなる。実は参加者が用いた液体の流れのソースは、問題を解く時、説明の時にその場で、つまりオンラインで作り出された可能性が高い。
オンライン生成の2つの鍵
一つ目は抽象的ではあるが、断片化されておりコンパクトな形になっている知識である。私たちは、「押し出す力が大きければいっぱい出てくる」、「狭いところがあると流れが減る」、「道がいくつもあればスイスイ通れる」とか、抽象的ではあるが、経験に深く根ざした断片化された知識表象を多数持っている。抽象的であるというのは、これらの断片がさまざまな物体の運動から引き出され、それらに共通する要素を含んでいるからである。こうした知識表象は、水などの流体はもちろん、車や人の行き来、商品の流通などいろいろな場面に応用可能である。
もう一つのかぎは、アナロジーのターゲットとなる電気回路である。電気回路では何かが流れており、流れる通路のようなものがあり、流れを作り出すものがある。
このような断片化された知識は、電気回路という特定の構造を持つターゲットを前にした時に、吸い寄せられ、自己組織的に構造を生み出すのである。つまり、ターゲットの持つ特徴や構造に合わせた形で、インタラクティブにソースが形成されているのである。そして、人間はその場でできあがったソースを、あたかも自分の中にもとからあったようなものとして利用し、それを動かしながら推論をしたり、説明をしたりするのである。
現象学的プリミティブを利用してソースのオンライン生成をしているのでないか*1
人間は物理現象の観察を通して、これ以上説明ができない最小限の認知的な要素を作り上げているという。この最小限の認知的要素は、現象学的プリミティブと呼ばれる。たとえば「支えがあれば落ちない」とか、「何もしなければ動かない」などである。これらについてなぜかと言われても、ふつうの人は当惑してしまう。このようにこれ以上分解、還元ができないという意味でプリミティブなのである。
これらが文脈に応じて呼び出され、また関連するリンクを通して他のプリミティブを呼び出したりしながら、物理現象の認識や、そこからの推測を生み出すという。この現象学的プリミティブの考え方は、要素的で、断片化された小さな知識表象が場面に応じてアナロジーのソースを作り出す姿ととてもよく似ている、というか同じものだろう。
虚偽の記憶を生み出す心の仕組みととても似通っている。虚偽の記憶でも、子ども時代の断片化された経験が数多く存在しており、それらがカウンセラーの課す課題、実験者の課す課題の要請に応じて引き寄せられ、自己組織的に一貫した構造を持つエピソードを作り出していた。これは、見たこともない水流システムをあたかも眼前にあるかのようにしてアナロジーを行う人のさまとよく似ている。記憶の場合には、それがネガティブな結果を生み出すことから人間の弱さのように感じられるわけだが、アナロジーを見れば、そうした弱さが場面への柔軟な対応を生み出していることがわかるだろう。
論文
*1, diSessa, A. A. (1993). Toward an epistemology of physics.
出典