ラッダイト(機械破壊運動)
スウィング暴動
1826/1830
「労働者は、男であれ女であれ、地理的にも職業面でも移動の必要に迫られた。これは前例のない事態である。彼らにとって機械は失業を意味した。すくなくとも失業のリスクを意味した。資本が稀少だった時代の失業は、よくても産業間または産業内での一時的な移動を意味し、悪くすれば経済全体に影響をおよぼした。機械は必要なスキルを変化させ、低賃金で未熟練の労働者の導入を伴うことがあまりに多かった……この時期の経済学における考え方の変化は、階級闘争と密接に結びついている。一八二六年のランカシャーにおける機械破壊や一八三〇年のスウィング暴動(小麦栽培地域における農業機械の破壊)を経済学者が重く見たのは、こうした背景があった(55)」
ラッダイト前夜
家内工業の収益力が激減したため、工場で働くことの機会費用が小さくなった、ひらたく言えば工員として雇われるほうがましになったことである。機械化が進むにつれて工業製品の価格はどんどん安くなり、農村部の家内工業ではとうてい太刀打ちできなくなり、生計が立ち行かなくなる。そこで家内工業を営んでいた農村部の労働者は、都会の工場での働き口を探すほかなくなった。
1768
機械化の導入をめぐる労働者と政府の衝突は、当時はめずらしいことではなかった。一七六八年五月一〇日、イーストロンドンのライムハウスで数百人の製材職人が製材工場に火を放ち、全焼させた。この製材工場はイギリス初の蒸気機関で稼働する方式で、創立者のチャールズ・ディングリーは王立技芸協会から金メダルを受賞したものである。製材職人たちは、工場のせいで仕事がなくなったと主張した。
1769
議会は一七六九年法を制定し、機械を破壊した者は死刑に処すと定めたのである(58)。
1772/1779
一七七二年にはマンチェスターで、カートライトの自動織機を据え付けた工場が焼け落ちた。機械が急速に普及していたランカシャーでの一七七九年の暴動も負けず劣らず危険だった。
軍隊による鎮圧
イギリス政府は強硬姿勢で臨み、ただちに鎮圧にかかる。リバプールから軍隊が派遣され、群衆はたちどころに蹴散らされた。ランカシャー暴動後に採択された決議には、機械の導入を規制すればイギリスの輸出競争力を削ぐことになる、とある。この決議は、イギリス政府の論理を明確にすると同時に、商工業者が政治的影響力をつけたことをはっきりと示している。たとえ機械化によって労働者が犠牲になり社会不安が起きるとしても、イギリスの競争優位は死守しなければならない、ということだ。破壊行為は国中に野火のように広がったが、いかなる試みも政府によって次々に鎮圧された(59)。
ラッダイト運動
最も激しかった1811-1816
この結論は、イギリスの労働者たちが完全に八方ふさがりの状況に置かれていた事実を冷酷に示している。労働者たちは新技術の普及を食い止められなかっただけでなく、労働置換技術の導入を禁じた古い法律の効力を維持することにも失敗した。一六世紀に制定された起毛機の使用を禁じる法律の継続を一〇年以上にわたって陳情したにもかかわらず、議会は一八〇九年にこの法律を撤廃したのである。暴動は一段と激しくなった。
ラッダイトが最高潮に達した一八一一~一六年には、ノッティンガムシャーでは自動編み機が、ヨークシャーでは起毛機が破壊される。どちらも古い技術だが、古いにせよ新しいにせよ、仕事を奪うと目された機械はすべて破壊の対象になった。あちこちで起きた暴動について、ジェフ・ホーンは次のように書いている。
「ラッダイトの名は、レスターで職長から叱責されてストッキング編み機を破壊したとされる見習いのネッド・ラッドに由来する。〝ネッド・ラッド〟またの名を〝キャプテン・ラッド〟あるいは〝ラッド将軍〟を押し立てた労働者たちは、編み機を壊して回った。
関連
一八一一年二月初めには、ノッティンガム、レスター、ダービーを結ぶミッドランズ三角地帯でレース編み機や靴下編み機の破壊運動が始まる。ラッダイト運動家たちは地元の圧倒的な後押しを得て、控えめに見積もっても一〇〇回は襲撃を仕掛け、(全部で二万五〇〇〇台のうち)一〇〇〇台の編み機六〇〇〇~一万ポンド相当を破壊した。ミッドランズの破壊行為は一八一二年二月に下火になるが、すでに一月にはヨークシャーの毛織物工業に飛び火していた。四月にはランカシャーの綿織物工業が続く。工場は、鉄の棒などの武器を携えた群衆に次々に襲われた。参加者の中には機械化の影響を直接受けていない者も大勢いるなど、雑多な人間の集まりだったにもかかわらず、革新的な機械つまり雇用を脅かす機械しか破壊せず、それ以外の機械には手を触れていない。破壊運動にいたった具体的な原因は、地域によっても、また産業によってもちがった。合計すると、第一波のラッダイト運動が与えた損害は一〇万ポンドに達したと見込まれる。その後に一八一二~一三年冬、一四年夏・秋、一六年夏・秋、一七年初めと第二波、第三波が続き、数百台の編み機がさらに破壊された(63)」
だが、次々に展開されるラッダイト運動はイギリス政府に軍隊の出動を促しただけで、どれも不首尾に終わる。労働者たちが置かれた状況は、政治的に見ても絶望としか言いようがない。
一八一二~一三年に三〇人以上のラッダイト運動家が絞首刑に処せられたことは、政府の強硬姿勢をよく表すものと言えよう(66)。
一八三〇年のキャプテン・スウィング暴動にはイギリス全土から二〇〇〇人以上が参加し、農業機械だけを破壊した。一八三〇年九月から一一月末までの間に四九二台の機械が壊されたが、その大半が脱穀機だったことがわかっている(67)。このときもイギリス政府の対応は容赦なかった。軍隊と地方の民兵を動員し、有無を言わさず暴徒を捕え、二五二人に死刑宣告を下したのである(その一部は後にオーストラリアかニュージーランドへの流刑に減免された(68))。キャプテン・スウィング暴動の原因は長らく歴史家の間で議論されていたが、ブルーノ・カプレティーニとハンス・ヨアヒム・ヴォスは脱穀機の普及に関するデータを見直し、新たな見方を提唱している。すなわち、労働置換技術かどうかが破壊行為や社会不安を引き起こす決定因になるということだ(69)。労働置換型の機械が導入された場合、暴動が起きる確率は五〇%近く跳ね上がるという。よって経済や社会への不満が背景にあるにせよ、破壊行為に走る決定的な要因はやはり機械それ自体にあったと考えられる。
21世紀のラッダイト
とは言え、技術のタイプを区別する必要がある。もし人々が技術の進歩で最終的にはゆたかになれると感じれば、波乱が起きても受け入れる可能性が高い。だが、技術の発展で転職先の選択肢が少しずつ減っていき、今後数十年は所得の増加を見込めないと感じれば、テクノロジーの威力に抵抗する可能性が高まる。すでに見たとおり、工業化の初期は、誰もが得をしたわけではなく、ごく当然の流れとして、しわ寄せを受けた人は新しい技術の導入に激しく抵抗した。エンゲルスの休止は最終的には終わったし、非常に長い目でみれば、一般市民は格段にゆたかになった。だが機械に仕事を奪われた人の多くは、成長の果実をまったく摘み取れなかった。いまの私たちも、再び労働者が不要になる技術変化の時代に生きている。ロドリックはこう指摘する。「ロボット工学、バイオテクノロジー、デジタル技術といった分野で新たな発見が相次ぎ、実用化されれば、潜在的にさまざまなメリットがあることは疑問の余地がない。……多くの人は、世界経済がまたもや新技術の爆発的な拡大期を迎えるのではないかと感じている。問題はこうした新技術の大半が、労働節約型の技術だという点にある(62)」。
結局のところ、自動化の帰結であれ、グローバル化の帰結であれ、また他の要因の帰結であれ、市民が市場の審判を必ず受け入れる保証はない。そして多くの市民が最近の技術進歩を快く思わないのもまったく無理のない話だと言える。二〇一八年五月二三日、ラスベガス料理人労組の組合員二万五〇〇〇人のほぼ全員がストライキに賛成票を投じた。賃上げに加え、ロボットに職を奪われないよう雇用の保証を求めたのである。ラスベガスのホテルで料理人として働くチャド・ニーンオーバーさんは「自分の仕事がロボットに奪われないようストに賛成した。……技術が発展することはわかっているが、働く人が追いやられ、取り残されることがあってはならない」と主張する。同労組の財務担当幹部も「仕事を改善するイノベーションは支持するが、雇用を破壊するだけの自動化には反対だ。この業界は人間味を失うことなく、イノベーションを実現しなければならない」と語っている(63)。
もっと広範な調査をみてみよう。ピュー・リサーチ・センターが二〇一七年にアメリカの成人四一三五人を対象に実施した調査によると、回答者の八五%が作業の自動化を危険な仕事に限定する政策を支持した。このうち四七%は「強く」支持すると答えている。また回答者の五八%は「たとえ機械のほうが性能がよく安上がりであっても、機械に置き替える仕事の数を制限すべきだ」と主張している。失業者に対する責任は誰がとるべきかという質問では意見が分かれたが、約半数は「たとえ大幅な増税が必要になっても」政府が責任を負うべきだと答えた。民主党の支持者は政府の役割拡大に賛成することが多く、共和党の支持者は個人の責任だと考える傾向が強かった。それでも、民主党支持者の八五%、共和党支持者の八六%が自動化は危険な仕事や健康を害する仕事に限定すべきだと考えている。そしておそらく読者もお察しのとおり、仕事が減っている労働者グループは自動化の制限を支持する傾向が強い。高卒以下の回答者では一〇人中七人が、機械で代用できる雇用の数を制限すべきだと回答した。大卒者で同じ見解を示したのは一〇人中四人だった(64)。