ブレイントラスト
ブレイントラストとは、卓越した作品づくりに向けて、妥協を一切排除するための仕組みだ。スタッフが忌憚なく話し合いをするための要となる制度で、およそ数カ月ごとに集まり、制作中の作品を評価する。その仕組みはいたってシンプルだ。賢く熱意あふれるスタッフを一堂に集め、問題の発見と解決という課題を与え、率直に話し合うよう促す。正直になることが義務のように感じられる人は、率直さを求められると多少気が楽になる。率直な意見を述べるかどうかを選ぶことができ、実際に発言すると、本音である場合が多い。ブレイントラストは、ピクサーで最も重要な伝統の一つだ。絶対確実な仕組みではない。ときには率直になることの難しさが際立つだけの場合もある。だが、うまくいったときの成果には驚くべきものがある。ブレイントラストは、制作現場のムードまで変えてしまうのだ。
そこにはクリエイティブな人々が集まるほかのグループと何ら変わりなく、謙虚さ、自尊心、素直さ、思いやりなどが見られる。何を吟味するかによって規模や目的が異なるが、つねになくてはならない要素が率直さだ。絵に描いた餅ではだめで、率直な議論という批評的な要素なしでは、信頼は生まれない。そして信頼なしでは創造的な共同作業はできない。
ブレイントラストに求められるのは、物語を語る才能
ブレイントラストという名前はついていたものの、メンバーは厳密には決まっていなかった。監督、脚本家、ストーリーの責任者など、さまざまな立場のスタッフが加わるようになったが、唯一求められたのは、物語を語る才能だった( 追加メンバーは、ピクサーのストーリー部門の責任者、メアリー・コールマン、開発部門のキール・マレーとカレン・パイク、脚本家のマイケル・アーント、メグ・リフォーヴ、ビクトリア・ストラウズなど)。
ブレイントラストにおける率直さ
初めて参加するブレイントラスト会議。熟練の優秀なメンバーが部屋を埋め尽くしている。先ほど上映された映像について議論するためだ。この状況で、発言に慎重になる理由はいくらでもあるだろう。礼を失したくない、相手の意見を尊重し、できれば従いたい、恥をかきたくない、知ったような口をききたくない。自分が発言するときには、どんなに自信のある人でも、一度チェックするだろう。これはいいアイデアだろうか、それともくだらないアイデアだろうか。ばかなアイデアは何回までなら言っても許されるのだろうか。その主人公は現実味がないとか、第二幕がわかりにくいとか、監督に言ってもいいのだろうか。思ってもいないことを言ったり、何も言わずに済ませたいわけではない。この段階では、率直さなどそっちのけで、ばかだと思われないためにどうするかしか考えていない。
もっと厄介なのは、そういう葛藤と戦っているのは一人ではなく、皆がそうだということだ。社会的に自分より上の立場の人には本音が言いにくい。さらに、人が大勢いるほど、失敗できないプレッシャーがかかる。強くて自信のある人は、無意識にネガティブなフィードバックや批評を受けつけないオーラを放ち、周囲を威圧することがある。成否が問われる局面で、自分のつくり上げたものが理解されていないと感じた監督は、それまでのすべての努力が攻撃され、危険にさらされていると感じる。そして脳内が過熱状態になり、言外の意味まで読み取ろうとし、築き上げてきたものを脅威から守ろうと必死になる。それほどのものがかかっているとき、真に忌憚のない議論を期待するのはとうてい無理だ。
それでも、ピクサーの創造的プロセスにとって、率直さほど重要なものはない。それは、どの映画も、つくり始めは目も当てられないほどの「駄作」だからだ。乱暴な言い方だが、私はよくそう言っている。オブラートに包んだら、初期段階の作品が実際にいかにひどいかが伝わらない。謙遜で言っているのではない。ピクサー映画は最初はつまらない。それを面白くする、つまり「駄作を駄作でなくする」のがブレイントラストの仕事だ。
複雑創造的な仕事では道を見失う
ブレイントラストの効果や、なぜそれがピクサーにとってそれほど重要なのかを理解するには、まず基本的な事実を認識する必要がある。複雑で創造的なプロジェクトを引き受けた人は、その過程のどこかで道を見失う。そういうものだ。ものをつくるには、いっときそのものになりきるくらいに入り込む必要があり、ほぼ一体化した状態になって初めて、本当につくりたかったものが見えてくる。だが、それは一筋縄ではいかない。脚本家や監督は、一度は見えていたはずのものが途中で見えなくなる。以前はちゃんと森が見えていたのに、今は木しか見えない。ディテールに寄りすぎて全体が見えなくなり、そのせいで、これだという方向に自信を持って進むことができない。その経験はたとえようのないものだ。
複雑創造的な仕事へのフィードバックは難しい
どんなに才能や分別や明瞭な視野を持った監督でも、必ずどこかで自分を見失う。そうなると今度は、意味のあるフィードバックを与えようとする側が悩まなければならない。問題が見えていない監督に、どうやって問題に対処させるのか。その答えは当然、状況によって異なる。もしかしたら監督が言うとおり、基本的なアイデアはよくて、単にブレイントラストが理解できるように組み立てられていないだけかもしれない。自分の頭の中にあるイメージが、スクリーンを通して伝わっていないことに気づかない場合がある。反対に、リールで見たアイデアの効果がなく、改善の見込みもないため、代わりのものを即席で考えるか、最初からやり直すしか方法がない場合もある。いずれにしろ、明確な方向性を取り戻すには、忍耐と率直な議論が必要だ。
権力を持った素人からのフィードバック
ハリウッドでは、スタジオの上層部が試作をチェックするときには、批評を長い「メモ」にして監督に渡すことが多い。試作が上映され、提案事項が活字化され、数日後に届けられる。ところが、監督はそのメモを少しも有り難いと思わない。それを書いているのが映画経験者ではないため、素人が邪魔をしているとしか思ってない。それに監督と監督を雇う制作会社とは、本質的に緊張関係にある。はっきり言ってしまえば、お金を出しているスタジオは映画の商業的成功を求め、監督は芸術的価値にこだわる。けれども上層部のメモの中にはかなり的確で鋭い内容が書かれているものもある。外からのほうが、物事がよく見えることもあるのだ。しかし、そもそも監督を務めることの難しさ──何カ月間も駄作に取り組んでようやくいい作品になる──に、クリエイティブ側ではない人々からのインプットへの恨みが加わると、芸術とビジネスの間の溝は埋めがたいものとなる。
熟達者からのフィードバック
では、ブレイントラストはほかのフィードバック体制と何が違うのだろうか。 私は、二つの重要な違いがあると考えている。第一に、ブレイントラストのメンバーは、ストーリーテリングに深い造詣を持つ人ばかりで、たいていそのプロセスを自ら経験している。制作中、監督はさまざまな立場の人から感想を聞こうとする( 実際に、社内で上映された後には、ピクサーの全社員にコメントを送るように言っている)が、とりわけ監督仲間やストーリーテラー仲間からのフィードバックを大切にする。
権力を取り除き、実行する人の問題解決を助けること
第二の違いとして、ブレイントラストには権限がない。ここは重要だ。監督は、提案や助言に従う必要はない。ブレイントラスト会議後、フィードバックにどのように対処するかは監督に任されている。ブレイントラスト会議はトップダウンでも、「これをやらなければどうなる」というものでもない。ブレイントラストに解決策を強制する権限を与えないことで、私が必要だと感じている影響をグループに与えられていると思う。
ブレイントラストは、監督の問題を解決すべきではないのだ。なぜなら、ブレイントラストが思いつく解決策は、十中八九、監督やそのクリエイティブチームが思いつく解決策には及ばないからだ。アイデア、ひいては作品は、批評にさらされ、もまれてこそすばらしいものになる。学問の世界では、学者は査読を通じて、その分野の他の研究者たちの論評を受ける。ブレイントラストは、ピクサー版査読であり、処方の指示ではなく、率直な議論と深い分析によって、確実にレベルアップが期待できる討論の場だと私は考えている。
階層制度よりも優先する
スティーブ・ジョブズがピクサーのブレイントラスト会議に来なかった理由の一つがそれだ。彼の存在感が大きすぎて、率直な会話が困難になると私が考え、スティーブも同意した。
「このグループはチームワークもいいし、いい仕事をしている」と、ブレイントラストのことを言った。「でもスティーブがそこにいたら、同じようにはいかないだろうね」。彼は同意した。そして物語のことは自分よりジョンたち物語屋のほうがよくわかっていると言って、彼らに任せきった。アップルでは、どんな製品のどんな細かいディテールにも深く関わることで知られた彼だったが、ピクサーでは自分よりほかのメンバーの直感を信じ、立ち入ろうとしなかった。
聞く側の覚悟
ブレイントラストは率直な批評が重要だと言ったが、当然、制作スタッフが本音を聞く覚悟ができていることも重要だ。率直な意見は、それを受け取る側が耳を傾け、いざとなれば効果的でない部分を捨て去る覚悟があって初めて役に立つ。
ピートの映画のプロデューサーを務めるジョナス・リベラは、その辛さを和らげようと、いつも自分が担当する作品の監督のために、「ヘッドライニング」といってブレイントラスト会議の要点をまとめてあげている。会議で出た数多くの指摘事項からエッセンスを抽出し、消化可能なものにするのだ。このブレイントラスト会議の後にも、ピートのために同じことをした。最も問題だと思われた部分と、最も共感を呼んだシーンのチェック。「じゃ、どこを膨らませる?」とジョナスが尋ねた。「どこを削る? どこが好き? この映画の好きなところ、始めたときと今とでは違う?」
「オープニングは気に入っている」とピートが答えた。 ジョナスは手で敬礼の真似をした。
「了解! ストーリーはそれとシンクロしないとね」
自分のパズルにとり組む大勢の人
最初に手がけたディズニー長編映画が『シュガー・ラッシュ』だったリッチ・ムーアは、ブレイントラストを「それぞれに自分のパズルに取り組んでいる大勢の人」にたとえる( ジョンと私がディズニー・アニメーション・スタジオを引き継いだため、そこでも率直さの伝統が取り入れられている)。自分自身ジレンマを抱えている監督というのは、思い入れの強さの違いからか、自分の問題よりも他の監督が抱えている問題のほうがよく見えるものだと言う。「自分のクロスワードパズルを後回しにして、人のルービックキューブをちょっと手伝ってあげているような感じです」
ブレイントラストのメンバーで、ピクサー映画一一作品の脚本に尽力( 声優としても出演)したボブ・ピーターソンに言わせると、ブレイントラストは、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作に登場する、すべてを見通す瞼のない「サウロンの目」だと言う。目に止まったら最後、その鋭い視線から逃げようがない。
開始以来ほぼすべてのブレイントラスト会議に、批評する側かされる側として出席しているアンドリュー・スタントンは、ピクサーを病院だとすると、映画は患者で、ブレイントラストは信頼できる医師の集まりだという。このたとえの中で、監督やプロデューサーも医師であるところが重要だ。ブレイントラストは、きわめて難しい症例について正確な診断を下すために集められた専門の顧問医師団だ。だが、最終的に最も賢明な治療法を決定するのはほかでもない制作スタッフだ。
他人が自分で問題解決できるように貢献する
そのような批判的な環境を、歯医者のように怖くて不愉快なものだろうと不安に思うのは当然だ。どんな効果的なフィードバックグループもそうだが、そこで得られた視点を自分に抗うものではなく、プラスになると考えることがカギになる。競争意識があると、人のアイデアと自分のアイデアを比較するため、議論ではなく、勝ち負けを決める討論になってしまう。
反対に、プラスのアプローチは、参加する一人ひとりが何らかの貢献をする( たとえ議論をわかせるだけで最終的にボツになるアイデアでも)という理解からスタートする。ブレイントラストの価値は、たとえ瞬間的にでも人の目を通して作品を見ることができること、視野を広げてくれるところにある。
無数のアイデアの検討…オレのアイデアの検討ではなく
ブレイントラスト会議で行われることは、率直なコメントをすること以外にもたくさんある。本当に生産的な会議では、無数のアイデアが検討される。たとえば『ウォーリー』には、当初「トラッシュ・プラネット( ごみの惑星)」という題名がついていた。長い間、エンディングは、主人公のギョロ目のごみ処理ロボットが、愛する人造人間のイヴをごみ収集庫から救い出し、破壊を免れて終わることになっていた。だが、その終わり方がずっとしっくりきていなかった。何度も議論したが、監督のアンドリュー・スタントンは、解決策どころか、どこに問題があるのかさえわかっていなかった。しかも、そのロマンチックな終わり方が正しいように見えるのも厄介だった。もちろんウォーリーはイヴを救うだろう。一目惚れした相手なのだから。ある意味、それがまさにまちがいのもとだったのだ。
本音を掘り起こすためだけの論争…勝者は不要
率直な会話、活発な議論、笑い、愛情。ブレイントラスト会議に欠かせない要素を抽出すれば、この四つは必ず入る。しかし、ブレイントラスト会議を初めて体験した人が真っ先に感じるのは音量だという。興奮のあまり、人の話にかぶせるように話をするため、声が大きくなりがちだ。白熱した論争や、何らかのとりなしさえ目撃したと外部の人が思うことがあるのはたしかだ。そうした人の困惑も理解できるが、実際は違う。ブレイントラストの意図を理解していないからそう感じるにすぎない( 短い訪問時間だからしかたない)。ブレイントラスト会議での活発な議論は、誰かが勝っていい気分になるために行うのではない。本音を掘り起こす以外に、「論争」を行う理由はないのだ。
インサイドアウトでの事例
・作品のコンセプトと、物語の中で共感して欲しいポイントを説明する
・リールを上映する
・参加者からのフィードバックを得る
ブレイントラストが活気づいたころ、ある点で皆の意見が一致したようだった。映画の重要なシーンの一つ、なぜ薄れる記憶と永遠に輝き続ける記憶があるのかを二人のキャラクターが言い争う場面は、この作品が挑もうとしている深遠なテーマに、観る人を共感させるには弱すぎるのではないか。
君の想像する世界の決まり事をもう少しじっくり詰めたほうがいいんじゃないかな
どのピクサー映画にも、観る人が納得し、理解し、楽しむ、その作品のルールというものがある。たとえば『トイ・ストーリー』シリーズに登場するおもちゃたちの声は、けっして人間には聞こえない。『レミーのおいしいレストラン』のネズミたちは、本物のネズミのように四本足で歩くが、わがスター、レミーだけは二本足で立ち上がる特別な存在だ。ピートの作品におけるルールには、少なくともこの段階では、記憶( 光るガラス玉として描かれる)は迷路を通り抜けて脳の中の保管庫のようなところに貯蔵されるというものがあった。思い出したり取り戻したりした記憶は、ボウリング場でボウリングの球が手元に戻ってくるように、別の迷路を転がり降りて戻ってくる。 その仕組み自体には無理や無駄がなく効果的でもあるが、もう一つルールを定めて打ち出す必要があるとアンドリューは言う。
このシーンでこの映画のカギとなるテーマを確立すべきなんだ、とアンドリューは言った。それを聞きながら、私は『トイ・ストーリー2』で、ウィージーが加わったことで、壊れたおもちゃが見捨てられ、愛されることなく棚に置き去りにされる運命をたどるという認識が一気に確立されたのを思い出した。アンドリューは、ここに同じように強いメッセージを伝えるチャンスがあるのにそれを逃している、だから作品として成立していないのだとはっきり言った。「ピート、これは変わっていくことの必然、大人になることの必然を描く映画なんだよ」
出典