『ワークステーション原典』
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知識増大ワークショップ
思考のおもむくままに
科学は、個人と個人を結ぶ高速の通信を生み出した。考えを記録し、その記録を操作し、そこからエッセンスを抽出し、知識を発展させ、個人の一生ではなく、人類の生涯にわたってそれを存続させることを可能にした。
研究業績の山は高さを増す一方だが、専門家の信仰に合わせて身動きができなくなりつつあることも明らかになってきた。研究者はみな、ほかの研究者の膨大な発見や結論に追いまくられ、理解する暇すらないのだから。記憶する時間などありえようもない。にもかかわらず、専門家はますます進歩に欠かせない条件となりつつあり、それにつれて各分野を横断する橋を架けようという努力は、いよいよ頼りないものになっていく。
問題は、今日の関心の幅と多様性を上まわるほど多数の論文が発表されていること自体ではなく、現在の私たちが有効に活用できる限界をはるかに越えていることにあると思われる。人類の経験の総体は驚くほどの速さで増加しているにもかかわらず、私たちがその結果生じた迷路をたどって、この瞬間に重要なことがらを見つけ出すための手段、帆船時代につかっていたものとなんら違いがないのである。
ここまでくれば、未来の研究者の姿は目の当たりに見える。彼は手ぶらで何者にも拘束されていない。歩き回り、観察しながら写真を撮り、意見を述べると自動的に自国も加えて記録される。野外に出たら、記憶装置には無線でデータを送る。夜にはノートを検討し、また意見を記録しておく。タイプ済みの記録は投影しながら検討できるように、写真とともに縮小されることになるだろう。
個人使用を目的とした未来の装置――一種の機械化したプライベートなファイル/図書室を考えてみよう。名なしというわけにもいけないので、適当に、とりあえず「memex」とでもしておこう。memexとは、人間がそのすべての蔵書、記録、通信を収納しておく装置で、素早く柔軟に参照できるように機械化されている。これは、いわば所有者の個人的な記録の詳細かつ大がかりな補遺のようなものと言える。
パーソナル・ダイナミックメディア
紙の上の記号、壁の絵、そして映画やテレビすら見る側の思いどおりに変化することはないという意味で、人間とメディアとのかかわり方は有史以来おおむね非対話的で受動的なものだった。数学の公式によって宇宙全体のエッセンスを記号化できるかもしれないが、ひとたび紙に記されればもはや変化せず、可能性を拡大するのは読み手の作業になる。
あらゆるメッセージは、なんらかの意味で何かの概念のシミュレーションである。これは具象的にも抽象的にもなりうる。メディアの本質は、メッセージの収め方、変形方法、見方に大きく左右される。デジタルコンピュータは本来は算術計算を目的として設計されたが、記述可能なモデルならなんでも精密にシミュレートする能力を持っているので、メッセージの見方と収め方さえ満足なものなら、メディアとしてのコンピュータはほかのいかなるメディアにもなりうる。しかも、この新たな「メディア」は能動的なので(問合せや実験に応答する)、メッセージは学習者を双方的な会話に引き込む。これは過去においては、教師というメディア以外では不可能なことだった。これが意味するところは大きく、人を駆り立てずにはおかない。
創造思考のためのダイナミックなメディア――ダイナブック
形も大きさもノートと同じポータブルな入れ物に収まる独立式の情報操作機械があるとしよう。この機械は人間の視覚や聴覚にまさる機能を持ち、何千ページもの参考資料、詩、手紙、レシピ、記録、絵、アニメーション、楽譜、音の波形、動的なシミュレーション、そのほか記録させ変更したいもの全てを収め、後で取り出せる能力があるものと仮定する。
我々は可能な限り小さく、持ち運びができ、人間の感覚機能に迫る量の情報を出し入れできる装置を考えている。ビジュアル出力は少なくとも新聞の紙面より質が高くなくてはいけない。オーディオ出力も同様の基準に達していなくてはいけない。
原因と結果のあいだには、感じとれるほどの間があってもいけない。我々はこうしたシステムの設計では、たとえば、フルートのような楽器は使用車が占有でき、その意思に常に即座に反応することをしばしば引合いに出す。吹いてから音が聞こえるまでに1秒もかかったらお話にならないだろう。
ユーザー技術――「指示」から「熟慮」へ
パーソナルワークステーションの技術は、コンピュータシステムと人間が密接に協力して知的作業を行う未来というビジョンを原動力としてきた。