線形思考
動物は体重が半分になると、必要な食料も半分になるだろうか? なると思うかもしれない。体重が半分になれば、喰わせるべき細胞の数も半分になるからだ。これは「大きさが半分になれば必要なものも半分になる」ということであり、逆は「大きさが2倍になれば必要なものも2倍になる」ということだ。これは古典的な線形思考の1例だ。意外なことに線形思考は、1見すると単純なのに、なかなか気づかれないことも多い。それは、この考え方が明示的ではなく暗黙のものになっているからだ。
例えば、国、都市、企業、経済の評価とランキングで、1人あたりの指標がやたらに使われるのは、線形思考の表れなのに、みんなそれにあまり気がついていない。単純な例を挙げてみよう。2013年アメリカの1人あたり国内総生産(GDP)は約5万ドルとされているが、これは経済全体の平均として、各国民が実質的に5万ドル相当の「財」を産出したということだ。人口120万人の州都オクラホマシティのGDPは約600億ドルで、1人あたり国内総生産(600億を120万で割る)はアメリカの平均値、すなわち5万ドルに確かに近い。人口が10倍の1200万人の都市なら、GDPはオクラホマシティの10倍の6000億ドル(1人あたりの5万ドルかける1200万人)と推定される。しかし、実際に人口1200万人でオクラホマシティの10倍の、州都ロサンゼルスのGDPは7000億ドル以上で、1人あたりという基準で暗黙に使われている線形推計からの「推定」値よりも15パーセント以上も大きい。
もちろんこれは1例だし、例外だと思うかもしれない──単にロサンゼルスはオクラホマシティよりも豊かというだけの話なのかもしれない。確かにその通りだが、オクラホマシティとロサンゼルスを比べたときの過小推計は例外どころか、世界中のあらゆる都市に当てはまる1般的な系統的傾向だ。つまり1人あたりの数字で暗黙の前提となる単純な線形比例は、ほぼ絶対に当てはまらないということだ。GDPは、都市などほぼあらゆる複雑系の定量化可能な指標と同様に、概して非線形的にスケーリングする。この意味合いや影響については後で詳しく厳密に述べるが、とりあえず非線形的ふるまいというのは単純に、ある系の測定可能な特質が、サイズが倍になっても単に倍増するわけではないという意味だと思ってほしい。ここでの例では、1人あたりGDPは、平均賃金、犯罪率など多くの都市指標と同じく、都市の規模が大きくなると、系統的に増大する。これはすべての都市の本質的な特性を反映している。すなわち、社会活動と経済生産性は、人口数の増大で系統的に拡大するという特性だ。規模拡大による系統的な「付加価値」ボーナスは、経済学者と社会科学者からは「規模に対する収穫逓増」と呼ばれているが、物理学者は「超線形スケール化」というもっとセクシーな用語のほうを好む。
非線形スケーリングの重要な例は生物の世界にも登場する。(人間を含む)動物が生命維持のために毎日消費している食料とエネルギーの総量に着目すればいい。意外なことに、大きさが2倍で、2倍の細胞によって構成されている動物が毎日必要とする食料とエネルギーは、単純に線形に伸ばして推計されるような100パーセント増にはならず、75パーセント増にしかならない。例えば体重54キログラムの女性は、何の活動も仕事もせず生命を維持するだけで、1日1300キロカロリーほどを必要とする。これを生物学者と医師は「基礎代謝率」と呼んで、日常生活における活動を加えた「活動代謝率」と区別する。1方、彼女が飼っているイヌで、体重が約半分の27キログラムで、細胞数も約半分のイングリッシュシープドッグは、生命維持のために毎日彼女の約半分の食物エネルギー、つまり650キロカロリーを必要としそうなものだ。でも実際には、このイヌは毎日880キロカロリーが必要だ。
イヌは女性を小さくしただけの存在ではないが、この例は代謝率がサイズにつれてどう増減するかという1般的なスケーリング則の特別な例だ。これは体重わずか数グラムの小さなトガリネズミから、体重がその1億倍以上の巨大なシロナガスクジラまで、すべての哺乳類に当てはまる。この規則の重要な帰結として、グラムあたりで見た場合、動物(この例における女性)は大きければ大きいほど、身体を維持するために必要な単位重量あたりのエネルギーが(約25パーセント)小さくなるので、小さな動物(その女性のイヌ)よりも代謝効率が良いことになる。ついでにウマは、彼女より効率が良い。このサイズ増大による系統的な省力化は「規模の経済(スケールメリット)」として知られている。簡潔に言うなら、大きければ大きいほど、1人あたり(動物の場合なら細胞あたり、あるいは組織1グラムあたり)の生命維持に必要なコストは小さくなるということだ。これは都市のGDPに表れる、規模による収穫逓増、あるいは超線形スケール化の場合と逆だ。あちらの場合、大きくなればそれだけ単位あたりの値は増えたが、規模の経済だと、大きくなれば単位あたりの値はそれだけ小さくなる。このようなスケーリングは、「線形未満のスケーリング」と呼ばれる。
「クラーク・ケントの驚くべき強さの科学的説明──信じられないって? いやいや! この世にはすでに超強力な生き物がいる!」裏付けとして二つの例が挙げられている。「小さなアリは、自重の数百倍の重さを支えられる」そして「バッタは人間なら数街区に相当する距離を飛び跳ねる」。
いかにももっともらしいかもしれないが、これらは正しい事実を基にした見当ちがいの誤解の古典的な例だ。アリは確かに、一見すると人間よりもかなり強いように見える。しかしガリレオから学んだように、サイズが小さくなれば相対強度は系統的に高まる。だから強度とサイズの関係に従って犬からアリへとスケールダウンすると、もし「小さな犬が自分と同じ犬二、三匹を背負える」なら、アリは同じサイズのアリを一〇〇匹は背負える。まして人間は平均的なアリよりもおおむね一万倍以上は重いので、同じ理屈でおおむね一人しか背負えない。だからアリは、人間と同じくそのサイズに見合った強さを持っているにすぎない。自分の体重の一〇〇倍も持ち上げられるのは特別でも、驚異的でもない。
この誤解が生じるのは線形思考をしたがる自然な傾向のせいだ。動物のサイズが倍になると、強さも二倍になるとつい思ってしまうのだ。これが本当なら、人間はアリよりも一〇〇〇万倍強く、約一トン持ち上げられることになる。これはまさにスーパーマン同様に、一〇人以上を持ち上げられるということだ。