それそのものの話をする
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それを取り巻く社会関係、その裏側にあるロジック、それがもたらした状況じゃなくて、それそのものの話をしたい
ソフトウェアそのものを議論しなければ、その原因よりも影響ばかりを追いかけ続けることになる。つまり、背後にあるプログラムや社会文化を見ずして、コンピューター画面に映し出された結果だけを見るようなものだ。
If we don’t address software itself, we are in danger of always dealing only with its effects rather than the causes: the output that appears on a computer screen rather than the programs and social cultures that produce these outputs.
動機がシリコンバレーで非常に重要な理由は、シリコンバレーのかなり多くの人たちが間違った動機を持っているからだ。成功するスタートアップを始めることは、あなたを金持ちにしたり有名にしたりする。だから、スタートアップを始めようとする多くの人たちは、そういった理由でスタートアップをやっている。何の代わりに? 「問題自体への興味」の代わりにだ。これが真面目さの根源だ。
これはオタクの象徴でもある。実際、人びとが自分自身を「X オタク」と言い表すとき、彼らが言いたいのは自分たちが X 自体に興味を持っているということであり、X に興味を持つことがカッコいいとか、X から得られる産物のためではない。彼らは X に非常に関心があり、X のためにカッコいいと思われることを犠牲にしても構わないと言っている。
小玉 千陽さんとお話したときに、ドラマ『VIVANT』の話になった。 Netflixのような外資が入らずに、民法だけであれだけ大規模なロケ、海外品質のカラーグレーディング、そして『プリズン・ブレイク』ばりにスピード感のあるシリーズ構成に驚いたと、はつらつと語られていて。
その話を聞いた後に、2日くらいどういう訳か凹んでいた。
色々思ったんだけど、多分『VIVANT』の話をしているようで『VIVANT』の話をしていないんですよね。別に小玉さんは「外資が入ってないのにあのクオリティ」だから感動したんじゃなくて、『VIVANT』の中で描かれるお話や画の力に感動していたはずで。なんだけど、デザインのミクロな質感や手法に興味があるぼくと、事業立案やブランディングという側面からデザインに携わられている小玉さんとの差異を抜きにしても、小玉さんが生き生きと語る世界に、ドラマの内容に素朴に感動する一ファンとしての小玉さんが存在していないことが、なんだかショックだった。
だけど一方で「それそのものに肩入れせず、それを取り巻く関係性や抽象的な構造に価値を見出す」思考様式って、ホワイトカラーとして生きる上で適応的に働くんだとと思う。クライアント、チームビルディング、ターゲット、ユーザー体験 ― 実際その瞬間そこに居るのは具体的な相手だったり、具体的な共同制作者、そしてそれを使ったり観てくれる具体的なお客さんでしかない。それは不定冠詞つきの「クライアント」だったり「人材」「「ユーザー」などという言葉には決して抽象化できないものだ。
知性は本来的に帰納や抽象化を志向する。それはプラナリアの光走性のようなハードワイヤードされたものから、パブロフ学習、自然科学から金融工学のような複雑なものまで、連続体を成している。自然界で最も巨大なニューラルネットワークを脳に携えたぼくらは「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」との狭間を揺れ動きながら、てんてんばらばらな事象をエレガントに貫く法則性を見出すことに取り憑かれているし、そうした気まぐれな現実を生き抜くための再現性の高い方法論をひねり出すことを至上の快とする。そうした知性の欲動の副産物が、PostScriptであり、モナドであり、PCDAサイクルだ。
ぼくのキャリアにおける失敗は、そうした帰納的推理の快楽を、プログラミングのような道具鍛冶だったり、制作それ自体に向けることで昇華してしまっているところにあるのかもしれない。当然、どう交通整理をし、仕切っていくかという眼差しは、ぼく一人の制作だけに向けるより、人的資本やビジネスロジックのようなものに向けるほうがはるかに効率的なのは頭では理解している。個人の能力は対数的にしか伸びていかないけれど、人を動かす能力によって得られるものは指数的にスケールするからだ。だけどそれが今の時点ではどうしても魅力的だと思えない。そして、そうしたドメインで活躍する人たちが語っていることが、言葉を選ばずに言うと、とても空虚なものに思える。デザイン、ものづくり、クラフトについて語っているように思えて、実はそれそのものの話はしていない。むしろ、それを取り巻く関係性や状況の話している。本質的な興味がそれそのものに向けられていないために、そこから生まれたものは「正しい」かもしれないが、得てして退屈なものになる。
けどその空虚さ、退屈さこそが、企み人(たくらみんちゅ)として生き残っていくうえでの適性なんだとも思う。この空っぽさはむしろ「まっさらさ」でもあって、だからこそその時々の市場の需要にしなやかに適応していくことができる。主体性とか、その人自身のお気持ちなんてものはむしろ無い方がいい。美人投票的な世界を経済的に生きるには、美人さに対する強い信念とか、美人という概念への疑いなんてものはちっとも役に立たないから。「みんなが美人だと思う人が美人」と腹から思えたほうが、悔しいかな賢い生き方なんだと思う。 「それそのもの」の話をせずに、興味を多相的なまま留め置くことに対するうっすらとした反感について、いつか小玉さんみたいな汎デザイン主義的な界隈の人と腹を割って話すべきなんだと思う。すごく嫌われそうだけど……