それそのものの話をする
https://scrapbox.io/files/67845bf1f35935e226ba4f3f.png
それを取り巻く社会関係、その裏側にあるロジック、それがもたらした状況じゃなくて、それそのものの話をしたい
ソフトウェアそのものを議論しなければ、その原因よりも影響ばかりを追いかけ続けることになる。つまり、背後にあるプログラムや社会文化を見ずして、コンピューター画面に映し出された結果だけを見るようなものだ。
If we don’t address software itself, we are in danger of always dealing only with its effects rather than the causes: the output that appears on a computer screen rather than the programs and social cultures that produce these outputs.
Lev Manovich “Software Takes Command”
動機がシリコンバレーで非常に重要な理由は、シリコンバレーのかなり多くの人たちが間違った動機を持っているからだ。成功するスタートアップを始めることは、あなたを金持ちにしたり有名にしたりする。だから、スタートアップを始めようとする多くの人たちは、そういった理由でスタートアップをやっている。何の代わりに? 「問題自体への興味」の代わりにだ。これが真面目さの根源だ。
これはオタクの象徴でもある。実際、人びとが自分自身を「X オタク」と言い表すとき、彼らが言いたいのは自分たちが X 自体に興味を持っているということであり、X に興味を持つことがカッコいいとか、X から得られる産物のためではない。彼らは X に非常に関心があり、X のためにカッコいいと思われることを犠牲にしても構わないと言っている。
Paul Graham / 真面目さ
→ 真面目さ
「問題自体への興味」の代わりにある動機づけとして、功名心やお金を強調するのは、少しぼくの実感とは違う気がする。(彼はVCに居てそういう輩をたくさん観てきたのだろうけど)
僕が気になっているのは、もう少し誠実で善い目的、例えば「社会をデザインの力でよりよくする」とか「テクノロジーの力で企業価値にコミットする」とか、そういう方向性の漫然とした興味
→ Inventing on Principles by Bret Victor
(55分前後) 「ソフトウェアを使いやすくしたい」「ユーザーを喜ばせたい」とか、特に最近は「シンプルにしたい」と耳にすることも多いでしょう。悪くはないし、ある程度の指針にはなるかもしれません。しかしどれも漠然としすぎていて、それだけでは直接の行動に繋がりません。Larry Teslerの「誰もモードに閉じ込められるべきではない」という洞察は、もっと具体的で、世界の見え方そのものを変える力がありました。
耳触りはいいけれど、実は「それそのものの話をする」という話からはズレている。その個別具体的な対象への興味や取り組みが、結果としてなにかをよくする、価値にコミットするなら分かる。だけど、なにかをよくする、価値にコミットすることへの興味は、今この瞬間あなたがデザインやテクノロジーという具体的なものに惹かれてやまないことの十分条件ではない。(→ 必要条件と十分条件)
合目的的な世界観のなかで、デザインやテクノロジーをなにかを達成するために有用なもの、手段としてしか見做していない人は、それらの局所最適化問題には応えられても、それそのもののあり方を問うたり、相対化したり、オルタナティブを提示することは出来ない。何より、ある種の自己目的化、Fetishizationを悪とする人の仕事は、往々にして正しいが退屈。(実際そんな極端な人は居なくて、なんかようわかんないけどデザイン好きなんよね、っていうモチベーションは少なからずあるとは思う)
Software Takes Command
表層批評
専門性は人生のマクガフィン
(グラフィック)デザインの話をしているかと思いきや、チームマネージメントの話に終始している記事を読んだ
ただ原さんは「うすらグラフィック」然り、デザイナー文化の自己目的性に批判的な立場ではあるのよね
→ ここに書いていた内容をベースに Web Designingにニッチな物語とマクロな物語性という記事を寄稿した。