言語・脳は違うものを「同じ」ものとして扱う
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逆に視覚・聴覚の情報処理がぶつかるので、「同じ」にする働きの持つ言語が発明された。
他人の脳ともつながる、と言っているのだが、よくわからない。引用しておく どこで問題が生じるのか。他人の意識と自分の意識の間である。意識は感覚で捉えられない。それなら他人の意識自体は、差異の対象でもないし、同一性の対象でもない。それをふつうに言葉でいうなら、「相手の考えていることはわからない」のである。しかし、ここでミラーニューロンのような機構がはたらいているとすると、「同じ」が相手に直達してしまう。ここでも意識は「同じ」というはたらきなのである。だって、相手と自分に「同じ」神経活動が起こるのだから。(p197) 意識は自分つまり意識自体については「同じ」を繰り返すのだが、外に対しては「違う」を繰り返す。外部を感知するのは感覚に決まっている。それなら外は差異の連続なのである。現に身体は差異の連続で、だから個性は身体にある。個性とは「他人と違う」ということだからである。自分の身体ですら、意識にとっては外部である。感覚で捉えられるからである。(p197)
脳の中は「同じ」の世界だが、身体には「違う」があるよ
動物とヒトとを分つものは、「同じ(イコール)」と捉えられる力だと。 ヒトの脳は、あらゆるものを「同じもの」として結びつけ、やがて世界を「一つのもの」と捉えるようになる。それが一元論であり、その究極の具現化が、宇宙の真理である神、一神教の神、ということにもなる。そして現代においては、その神に代わるものとして「デジタル」が発明される。民主主義という社会制度、お金が作る経済、それらも根は同じ、交換する・結びつけるという脳の働きによる。それが、養老孟司の人間観、ヒトとはなにか、ということの、一つの答えである。(p270) これはfreakscafe.iconがよく言っている脳のアナロジー構造の話ともつながると思う