情動と理性の相反
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情動と理性が相反するのは、情動は進化の過程で獲得された生得的なものですが、理性はヒトが歴史(つまり失敗と対策)を重ねる中で構築してきたものだからです。 理性は情念の奴隷であるべきだ、とはデビッド・ヒュームの言葉ですが、これは経営についても言えると思います。知識は感性の奴隷であるべきであり、客観は主観の奴隷であるべきだ、ということです。最近おかしなことになってる会社ほど前者を重んじる気風が強いように思います。 L.F.バレット『情動はこうしてつくられる』は必読。悲しみや怒り等の情動は普遍的で、脳の辺縁系等の部位に局所化されるとみなす古典的情動理論を全面的に覆そうとする、構成主義的情動理論。情動は生得的でなく、脳が社会的、言語的に学習し、予測した結果である。
ダーウィンに抗って、世界的に共通な情動の指標は存在しないことを数々の実験データから裏付け。実際の場面で私たちは、驚きや恐怖のステレオタイプの表情をすることはなく、むしろそれらを典型的表情と理解するのは西洋的なバイアスのひとつである。例えば空港で親友を待つとき、いつ現れるかの期待、来ないかもという恐れ、話が合わないかもという不安、その姿を目にした時の幸福だけでなく、仕事の疲れや、空腹などの非情動的経験が無数に身体に立ち現れる。その中で脳は状況に応じた適切な予測を行う。情動は脳の単なる反応ではなく、予測の結果。
情動の多様化は「情動粒度」が粗いか細かいか、概念の細かさと合目的性の有無により起こる。エモいや萌えといった感情の新しい発明には親和的な理論だが、他方で概念と文脈を重視するため、人間中心的で言語中心的、意識中心的な議論になる。実際、乳児や動物には曖昧な気分はあっても、合目的的な推論ができないため情動はないという結論も示唆される。情動に意識は必須であるのに対して、感情や気分に意識は必要ないという諸概念の再編も試みられている。
感情というのは抑えるのが当然なのに、解放するのがいいって風潮になってしまった。素直だとか、子供のような心ってのが誉め言葉になってるしね。でもそれは、単にガキってことだろう。子供らしいなんて、本当はよくないことなんだよ。
物語も、恋愛も、セックスも、「自分と和解する」ためのプロセスという側面をもつ。 自分と和解できていない人間にとっては、欲望は基本侵襲的だ。だから、欲望のままに動く他者に激しい嫌悪感、拒絶感を示す。自分と和解できていない人間ほど、自分は自分の欲望をうまく手懐けていると勘違いしている。だが、自分と和解し、欲望と上手く付き合っている人間は、他責的にはならない。
欲望は、本来、善悪を超えている。扱いによって、破壊的にもなるし、生を高めるようにも作用する。欲望と「上手く付き合う」とは、その欲望が誰かにとって破壊的に作用しないよう、例えば恋人同士が、ふたりのあいだに「適切な回路」を編み上げていく、というようなことである。