往相/還相
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私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土から浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。 曇鸞大師は、この「往相回向」も「還相回向」も、ともに私たちの自力によるのではなくて、「他力に由る」(由他力)と教えておられます。「他力」は、私たちが期待するとか、期待しないとか、そういうことにはまったくかかわりなく、一方的に私たち差し向けられている阿弥陀仏の願いによることなのです。「本願力」といわれます。(…)間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、それは、ただただ「信心」によることであると教えておられます。しかもその「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。つまり、阿弥陀仏の本願に素直に従っておまかせする心なのです。 親鸞が、曇鸞の 『浄土論註』にならって「往相」と「還相」をとくとき、ある意味で生から死の方へ生きつづけることを「往相」、生きつづけながら死からの眺望を獲得することを「還相」というように読みかえることができる。この浄土門の教義上の課題は、まさに思想的に親鸞によって抱えこまれ、そして解かれたのである。(p154) 他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない なお親鸞の「還相」を、吉本は2002年『超戦争論』においては、「視線の問題」である、としている。吉本は、「親鸞が還相ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向からー未来の側からといいましょう、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向うからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。」と述べている
〈往相〉とは、生から死へと向かう道のりで直面する眼前にある「緊急の課題」に挑む相である。〈還相〉とは、その道のりに、死からの眺望を繰入れて、「永遠の課題」にあたる相である。吉本はこの「還相論」を思索の土台の一つに据えながら、 『最後の親鸞』以降、思想・評論活動を行った。(…)〈往相〉だけでは、知識を獲得し尽くすことはできない。〈還相〉から、知識でないものを包括できなければ、ほんとうに知識を獲得したことにならない。