刹那的な共同体の所属が、クズ化を引き起こす
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共同体に所属するとき、その仮想的な中心に自己を近づけようとする しかし私たちは所属する共同体への接続と切断を、いとも容易くできるようになってしまっている 未解題
最近は「分断」について考えることが多い。近年の分断への傾斜はどこから出てくるのかとぼんやり思っていたのだが、むしろ刹那的な共同体の構成を繰り返すことが分断に繋がってるのではないか。伝統的な共同体は長期的な付き合いを強制するが故に分断を抑制していたのが、民族・文化・世代などなど様々な断絶の根っこにこれがある中、なんとかかんとか人類が上手くやってこれたのは断絶に対する許容範囲の様々に異なる人々が社会を形成することによってだった。現代の技術はこれを分断して個々に判断を迫り過ぎるのではないか。瞬間の感情を支える共同体を次々と形成できるが故にその抑制がなくなりつつあるのではないか。オルテガの議論を読んでそんなことを考えた。その意味で、前掲書でパットナム『孤独なボウリング』を引いての、複数の共同体を持つことが、共同体との絆を保ちつつ息苦しさを回避する方法であるという主張には、ちょっと待て、と思う。共同体に所属するとき、私たちはどうしてもその仮想的な中心に自己を近づけようとする。自分を理系だと思えば、自分自身を「典型的な理系」に少し重ねて捉え、そこに自らを引き寄せてしまう。それを、気に入った刹那的共同体に所属するたびに繰り返すとどうなるか。