リベラルアーツ
public.icon
教養というのは分断するツールではなく異なるバックグラウンドの人と繋がるための手段。いわば、シェイクスピアだった教養がワンピースになってるということです。
安宅和人.icon 第1に、母国語、第2に世界語、そして第3に問題解決能力だと思います。母国語と言っているのは、文章や相手の言っていることが理解でき、明確に考えを表現し、伝え、議論することができる力。世界語、現在は英語、と言うのは母国語と同様な能力に加え、情報のタイムリーな収集能力、言うべきことを敬意を持って的確に伝える力です。問題解決能力は、問題設定力であり、課題や対象を切り分け、整理する力、意味合いを出す力、以上を踏まえ、実際に結果につなげる力です。ここにデータやAIの持つ力を解き放つ力、データリテラシー、が4つ目の軸として加わって来ているというのが僕の基本的な見解です。具体的に言えば、分析的、データドリブンな思考力と基本的な知見なのですが、分析力、統計数理的な素養、情報科学の基本、データエンジニアリングの基本といったものです。これらを持った上でさらに豊かに生きていこうと思うならば、知覚できる内容や深さを高めるために、first hand的に理解できる領域を増やすことが大切です。そして幅広く多面的に考え抜いた領域が増えることが大切です。
見出すこと:手にした知識や知見が贈与であることに気づける人 贈与・・・差出人は未来形で,受取人は過去形で完了するもの サンタ(差出人)は子供からの返礼を一切受けず(未来形),子供(受取人)が親からの贈与だったと気づくのは時間が経った後(過去形).
古代ギリシャでのリベラルアーツの捉え方
読書猿.icon 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること
「気分を害さず、また自信も失わずに、あらゆることに耳を傾ける能力のことである」ロバート・フロスト 文法学は、言語学習でありながら、その実質は、情報に溢れたコンテクスト内で、「部分」をじっくりと観察したうえで、それを「全体」へと関連づける能力を育てることを兼ねていました。端的に言えば、リベラルアーツにおける文法学は「知覚力を向上させる基礎科目」だったのです。
人間の知的生産は「知覚・思考・実行」という3つのステージから成り立っていますが、リベラルアーツの基盤である3学(文法学・修辞学・論理学)は、この3ステージに見事に対応しています。本来のリベラルアーツは、知覚を起点とした知的生産のためにデザインされたトレーニングなのです。 https://gyazo.com/9366efda1e38cfb5949c6332b3852e9d
考えるべき対象を選択する
そういう「名作を楽しめないのは自分に足りないものがあるからなので、その作品を楽しめるように自分を変えていこう」という態度こそが「教養主義」だったのだと思う。よくも悪くも。
教養を身につけるにはどうしたらいいんですか?という質問に対して、「銃、病原菌、鉄と、まおゆうと、シビライぜーションをやれ」と答える技術顧問業をしている
私は、リベラル・アーツを「アナロジーによってネットワーク状に結合され、且つ構造的に立体化された知識体系」と定義し、その習得、育成のために「1.つねにアナロジーを働かせること、2.つねに原理を志向すること」の2点を挙げておきました。 リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。(…)ぼくの考える、インチキなしのリベラルアーツ教育の目的とは、「いかにして心地よい、豊かで、凛とした社会人生活を送り、ゾンビのように、無意識で、自我および唯一の完全な凄まじい来る日も来る日も訪れる孤独のドレイとなるのを回避するか」を問うことです。
何度も読みたいggkkiwat.icon
すぐには役に立たないけど、予測できない未来へ備える記憶として、「教養」や「リベラル・アーツ」があったのではないか!
ドラッカーによれば、教育の中身と方法が、これまでとはまったく異なるものとなる。知識が中心である社会における教養とは、読み書きに加えてコンピュータ、外国語、マネジメントの知識、自らの専門領域についての高度な知識、その他の専門領域の意味性の知識、そして自らをマネジメントするための知識を持つことである。 知識社会における教養は