アクターネットワーク
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社会的なものの社会学(Sociology)⇄連関の社会学(ANT)
既存のフレーム⇄具体的な現象それ自体を見つめる
Sociologyはフレーム使うが理解の解像度低い ex: 「社会」「権力」「構造」「コンテクスト」「資本主義」「帝国」「規範」「個人主義」
Sociologyは隠れた社会的動因を勝手に見つけて研究対象に押し付ける
確かにこういう社会学の態度は結構嫌だった。なぜなら自分にその刃を向けたくなかったから。ggkkiwat.icon
啓蒙的な役割を社会学が担ってきたからではないか、と。面白い ANTは社会の構成物を記述する
「社会構築主義」と違うのは、フィクションであるということを啓蒙しようとしないところ 「モノ」の重要性を低く評価する⇄「モノ」の重要性を高く評価する その後、有名な「モノ」の概念に至る。これも実験室での経験から来ている部分が大であろう。社会を組み立てる「つながり」のアクターには、「モノ」も入るというのがANTのユニークなところである。社会学はなぜ「モノ」を取り込んでこなかったのかとラトゥールは驚いている。社会構築主義では説明しきれない「実在」に向き合い、しかも、その「実在」が「単なるモノ一般」というよりは、複雑で繊細な表情をしていることにラトゥールは気が付いた。様々な用途のために作られた「モノ」たちが、無数の役割を果たしていることにラトゥールは気が付いた。
繋がりを媒介する「モノ」
「モノ」それ自体もアクターになるネットワーク──アクションが次々と伝わっていく複雑な網の目──として、この社会を捉えようとするのが、ANTの世界観であり、方法論である 清水高志.icon ラトゥールが科学人類学のメソッドとして提示したアクターネットワーク論は、科学の対象がまさに、このような人間主体による複数のアプローチの合流点、媒介者として現れる、その状況を分析するものです。通常私たちは、対象世界を《御している》、そしてそのための知的方法論をいくつも積み重ねて、そのすえにその対象を理解し扱えるようになると思いがちです。
しかしそんないわば線型的なアプローチがあるというのは幻想であるというのが、ラトゥールの考え方ですね。むしろ対象があって、それに対する様々なアプローチがどうやらその対象を媒介に初めて結びつくらしい、ということが分かってくるまでの過程が、科学によって新たな対象が発見される場合には見られる。科学者が一人でも、アプローチはこの場合多数です。そして主体が対象に働きかけたその作用が、また主体の別の働きかけの前提になるというかたちで、主客の作用がジグザグに循環するということがそこでは起こる。そして対象ははっきりした一つのモノとして収斂してきますが、主体のアプローチは複数化するので、ここでは《主客》という二項性だけでなく《一と多》という二項性も現れていることになる。この複数の二項性が混じった状況の中で、媒体としての対象、モノがどんな風に振舞うのか、またそれをめぐる主体の複数のアプローチがどう競合するか、それを考えようとするのがアクターネットワーク論です。ラトゥール自身人類学者でもありますが、これはモノと人間集団の関係を問い直す方法論でもあるので、非人間との関係を介して文化集団がどのように成立してくるか、といった分析にも有用です。(p174-175)
ブリュノ・ラトゥールは、自然、人間、実験装置などを等しくアクターと見なし、科学技術(テクノサイエンス)をそれらの混成体(ハイブリッド)としてのネットワークの作動と記述して科学観に新風を吹き込むとともに、自然と社会の二元論を支柱とした近代のあり方を見直す哲学を展開し、近年は近代の限界を露呈している地球環境問題の克服に向けた思想でも注目を集める。
ラトゥールは、哲学と人類学の知見を基盤に、まず実験室内の科学者の営みについての参与観察を通じた民族誌的記述をスティーヴ・ウールガーとともにまとめ、科学人類学という新たな分野を切り拓いた。その成果をもとに、ラトゥールは1980年代に入ると、パリ国立高等鉱業学校イノベーション社会学センターにおいてミシェル・カロンやジョン・ローなどの研究者と協力して、科学技術の研究開発のありようを記述する社会学理論であるアクターネットワーク理論を展開した。そこでは科学知識の生産が、社会制度、研究費獲得、研究室運営、実験器具、実験試料など、研究者個人以外の活動や装置をもアクターとして含むハイブリッドなネットワークの作動という視座から記述される。これは、不活性な物質的自然と、それを操作し簒奪する人間精神(とその社会)を対置する近代の二元論的発想を前提とし、またそれを強化してきた科学技術の自己理解に変革をもたらすものであった。 近年は、地球環境問題が近代の二元論的構図の破綻を示す事例の典型であり、その解決には人新世という視点を真剣に受け止める必要があることを主張している。すなわち、人間という主体が働きかける客体としての「自然」や人間を取り巻く「環境」という、「人間」に偏極した概念こそ、環境問題や気候変動を引き起こしている近代に潜む二元論的な発想の延長線上にあると指摘し、我々が生きる地表数キロの薄膜としての生命圏という、人間のみならず動植物、風土、気象、モノなどさまざまな地上的存在が織りなす世界(テレストリアル)に定位した、新たな世界‐自然観に転換することによって、政治システム、社会システムを組み替えることが必要であると提言している。
人類学、哲学、社会学はもとより、広く経営学、地理学、政治学などの分野にも影響力を持つラトゥールは、こうした「テレストリアル」という世界‐自然観を多くの現代人と共有すべく、自然科学者やアーティストとのコラボレーションにも積極的に取り組んでいる。ラトゥールのこのような多面的活動は21世紀の新たな学問のあり方を予示し先導するものである。
ラトゥールによれば、アクターネットワーク理論における「ネットワーク」とは、まさにこのそれぞれが「議論を呼ぶ事実」であるモノたちが、「一人前の媒介子として扱われる行為の連鎖」のことである(『社会的なものを組み直す』p.243)。
中間項としてではなく、媒介子として扱われるモノたちが引き起こす、行為の、連鎖、それがネットワークである。
ANTの「ネットワーク」では、アクターは「中間項ではなく媒介子として」、「効果や影響を変換せずにただ移送するのではなく、分岐点になったり、出来事になったり、新たな翻訳の起源になったり」するものとして、記述されることになる(『社会的なものを組み直す』p.243)。
中間項としてのものが「意味や力をそのまま移送する」のに対して、媒介子としてのものが「それが運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」ことになる。
ジョン・ロー曰く、アクターネットワーク論は単一の統一理論ではなく多くの事例研究と理論=記述の総称で、それらは物質的記号学(material semiotics)と言い換えられる。共通点は、基礎づけ主義を拒否し、異種混淆的な行為体が相互に定義しあうネットワークの生成と相対的な安定化の過程を記述する点にある。アクターネットワークの記号学的な関係性は、ネットワークを構成する行為体が相互に定義し形成しあう(互いの記号になる)点にあり、あらゆるものが諸関係の網の目の継続的な産出効果として扱われる。行為体が他に及ぼす「効果=力」もネットワークの布置の関数なのだが、物質性に強く着目する特長あり