エビデンス主義批判
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千葉雅也の形骸的エビデンスへの批判
不確実な世界なので、「形式的なよすが」に頼ることで、主体を安定させたいと思っている。 「やっている感」がないと信じる・安心することができない 私たちの世界の「合理化」ってのも、官僚的なこの方向性に帰着するんだろうな、って思った。今に官僚的なことを馬鹿にできなくなってくる(もうすでに、かもしれないが。。)ggkkiwat.icon また、他人からの迷惑を避けたい/責任から逃れたいとも思っており、できれば他者の活動を禁止したい/あとで「〇〇でしたよね」と言えるようにしたい そういった「無意識的なイデオロギー」を隠す存在として、エビデンス主義が発現している この批判からはじゃあ「どうしましょう」ってのをまだ感じ取れていなくて、もしかしたらそれは合理化がマクロトレンドではどうしようもないことだから、な気がしている。
「私たち自身は完全に合理化することができない」という限界に気づくことができたらいいのだけれどねggkkiwat.icon
この批判ページのエビデンス
以下の千葉雅也.iconによるツイート群
千葉雅也.iconのツイート
「何についてでも一意的なエビデンスを出せ」という単純さではダメだと僕は以前から将来予想を込めて言ってきて、エビデンス大事だろ!と批判されましたが、こういう現状報告を読んでほしいです。:欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感
エビデンス問題に関する僕の考察「アンチ・エビデンス」は、『意味がない無意味 千葉雅也』に収録されています。エビデンス主義の問題が、とりわけジェンダー/セクシュアリティの問題においてひとつの極まりを見せるだろうということ、これもまた僕が以前に「アンチ・エビデンス」で予示したことでした。 エビデンスとは、非人称的で「文字通りに反復可能」な存在であり、「差異を含んで反復可能」では不十分である、つまり、証言や解釈など、想像の可塑性に関わるものは棄却される。エビデンシャリズムには、互いの想像を信じ合い、裏切り合う者としての人間を不在にしたいという欲望すら含まれている。 エビデンス主義を口うるさく言いたい人というのは、高度資本主義のなかで主体性が不安定になっているから、とにかく「禁止による主体の安定化」を求めている。エビデンスというのは、それ以外のことは考えるな、という禁止を担うものである。 ちょっと2ちゃんに反応します。「過剰なエビデンス主義を批判してるが、タバコ問題に関してはエビデンスは口実であり、実際には関係ないと思う。単純に煙草の煙というものに対する不快感が人々の臨界を超えちゃったんだよな。」と書き込み。その通りです。僕の『Voice』での発言では、まさにそのことを書いています。「たんに不快だから」というのが、背景にどういう「無意識的なイデオロギー」を隠しているのか、です。そして「それが」エビデンス主義とどう結びついているのかを論じている。ぜひ、もう一度僕のあの文章を読んでみてください。ですから、僕のあの文章では、過剰なエビデンス主義が問題というのが主な議論ではありません。世の中のあらゆることが「迷惑だから嫌だ」という方向に向かっていること(無迷惑社会)の分析が第一なのであって、その上で、エビデンス主義を問題にしているのです。
デヴィッド・グレーバーは、官僚制の暴力性に、想像力を対置する。左翼とは、想像力を持つことだ、と。僕は以前書いた「アンチエビデンス」で、やはり想像力に基づく信頼の重要性を言った。(官僚的な)エビデンス主義は、想像力によって信頼し合う人間関係を破壊するのだ。 立場の白黒はっきり。鋭い二項対立。プラス・マイナスの両義性への鈍感化。一意的なエビデンスにもとづく万事の手続き化。……こういう状況は、人類全体が無機物的になっていく過程なんじゃないか、とふと思った。人類全体が、無機物に戻ろうとする「死の欲動」に衝き動かされているのではないか、と。 セブンでタバコや酒を買うときに年齢確認のボタンを律儀に押させるの、これでお客様の自己申告でエビデンスとりましたよ、店側には責任ありませんよ、という感じ。まさに現代という時代の不快感。 いわゆる「人は見た目が9割」というのは、言説の信頼性を無根拠に保障する儀礼機構として見た目が機能するからで、それは、あらゆるタイプの言説がその信頼性のために何らかの儀礼性を必要としている(ローマ的・近代的な「エビデンス」を用意するのも儀礼の一種だ)ということを改めて考えさせる。 本来エビデンスの信頼度はグラデーションだが、私たちは正解を求めて「ある/ない」の判断軸でいがち
本来のエビデンス・ベーストな思考は、かけられる時間やコストが有限な中でどうやって実践的な判断を下すか、というものなのに、「証拠がある・ない」の二項対立に押し込めて反専門家・反権威の旗印として濫用されている、というのは非常に鋭い指摘だと思う。(…)エビデンス主義というのは、決定論ではなく自然界に対する確率論的解釈であり、「真理は合意するものである」という価値観に基づく、という話。 フランス官僚的な「全能エリートの判断」が「プラグマティズム的数値評価による判断」に置換されたのが近現代の大潮流であり、エビデンス主義の反エリーティズム・反専門家的側面もその潮流のど真ん中にあると思う。ポーターの『数値と客観性――科学と社会における信頼の獲得 ポーター』を読めば、"エビデンス主義”が反専門家・反権威主義の側面をもちうることは歴史的必然として素直に理解できると思う。だから「やたらと“エビデンス”を求める人」と「陰謀論にハマる人」が似ているというのは、単なる表層的な揶揄や混ぜっ返しではなく、「数値と客観性(と正統性)」を巡る近現代の大きなうねりにおける本質的かつ必然的な事象だと私は認識しています -.icon
エビデンスの人類史ならこの本がオススメ。紀元前から「万病に効くという謳い文句で飲むと確実に死ぬ薬」などのパルプンテに脅かされてきた人類。地獄と戦うため人が作った知恵がエビデンスです。命に関わる医療と農業から教育へとエビデンスが流れ込む歴史が描かれています https://amzn.to/2uT4i5H データとエビデンスの作り方と使い方、特に落とし穴はこの辺が正直で実用向けです。
教育や健康など日常生活にまつわるエビデンスの紹介はこちら:
最後に「エビデンスとか効果測定とか百害あって一理なしなんじゃないか?」という意見も。「定量化できないものは存在しないと信じる者は、定量化できるものは存在すると信じている」というエビデンスバカ批判はこちら: 「エビデンスとは権威主義と懐疑主義を両立させるための技術的要素である」とか言っておくとかっこいいかも。
で、私からの批判は、現状では懐疑のための技術が弱すぎる、ということになる。使える技術はあるのに使いこなせてないわけで。だから結局、羊頭狗肉。