「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析」第3部講義メモ
第2期第2回 「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析──間主体的できごととしての『まちがい』」(2024-03-16)
- 「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析」第1部講義メモ
- 「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析」第2部講義メモ
- 03:48:57 第3部開始
ついに「こんばんは」くらいの時間になりましたが…さらにいうとここからが本題の本題という…(住本)
ようやく「まちがい」のところに来ました(山崎)
03:49:49 独立学派とは
クラインへの批判
メリッタ・シュミデバーグ(クラインの娘)
アンナ・フロイトとの大論争
→独立学派が仲介
学派というほど組織化されていない
クライン派でも自我心理学でもない人たち
03:51:40 ドナルド・ウッズ・ウィニコット
イギリス生まれ、非ユダヤ人
小児科医
「ウィニコットはクラインのことめちゃ好きなんですよ」(山崎)
しかしクラインはウィニコットをパージしてしまった
クライン:欲動論
ヴィヨン:クライン派の中で環境論を取り入れる
ウィニコット:欲動論と環境論を両用
環境を重視
母子のカップルで考える
03:56:00 ウィニコットの考える乳児
乳児は母親が供給する環境と自分の心的空間をオーバーラップさせて静かに生きている
ウィニコットはうまいこと言うのがうまい人(山崎)
「一人の赤ん坊などというものはいない」
逆説が好き
環境としての母親/対象としての母親
クラインにとっては母親は対象
ウィニコットにとっては環境
乳児にとって子宮の中のように母親から快適な環境が提供され続けるのが自然
供給がうまくいかないとPSポジションになる
ニード(need)と願望(wish)や欲望(desire)は違う
ニードには主体がない
ニードと環境供給との間にギャップがあると願望(主体)が生まれる
04:01:50 一時的母性的没頭
フェミニズムに評判の悪い概念
生後1,2日の時点では子どものニードはお母さんのニードであって区別がつかない
その時点では子どもは欲望を持つ主体である必要がない
母親ー乳児ユニット
a going-on-being
「他者」は存在しない
「a going-on-being」として生き生きとしている部分が成人のこころのなかで残っているのが「本当の自己」
本当の自己を守るために発達するのが「偽りの自己」
それがあることは健康
これが本体になってしまうと病的
04:05:51 qpp「自分の中のどれが偽りの自己なんかわからんです( ˘ω˘ )」
「qppさんいってみますか精神分析?」(山崎)
本当とは
ポストモダンには「本当」はない(ことになっている)
精神分析は近代の学問の面がある
主要な理論が1940〜60年代のもの その時代の思想
でも、人間ってそんなに変わる?
「本当」というものを措定することの生産性
なにが「本当」か? を知るために人が必要なんじゃないか
04:04:58 「対象としての母親」の侵襲
母親は環境だったのに、それが対象として全景にせり出してくる
対象としての母親が出てくると、偽りの自己を作る必要がある
ほどよい母親 good enough mother
母親が良すぎる(too good)と、子どもは外在性に遭遇できなくなる
子どもが現実感を持つためには「悪い体験」も必要
04:15:29 移行現象
どうしたら外傷的でなく外在性に遭遇できるか
故事の助長
稲の生長が遅いのを心配して苗を引っ張ったら枯れてしまった
浩然の気を養うためには努力しなければならないが、その効果を期待してはならない。また、効果を早くあげようとして、無理をしてはならない
時間がかかる
移行対象
ライナスの毛布
それによって自分の連続性を保っている
外から与えられたものでもあり、主観的には自分が作り出したものでもあるという逆説において移行空間を保持する
可能性空間
乳児でもあり母親でもある
空想でもあり現実でもある
どちらなのかを問われない空間
ウィニコットは生きているということは遊べることだと言っているんですよね(住本)
今のTwitterとかは全然遊びがないですからね。それは全然生き生きしていない(山崎)
04:26:01 全体対象と思いやりの能力
移行対象が終わった後、全体対象と思いやりの能力が出現
環境→対象の発見→破壊、そして空想的に生き残る
母親は報復したらまずい(生き残ること)
→対象は全体対象として認識され、「使用」できる(関係を持てる)
ひとりでいる能力
ふたりでいてもひとりでいることができるということ
ふたりでいるときも、孤立を保てる
ひとりでいてもふたりでいることができるということ
物理的に一人でも、母親を思い浮かべることができる
わかりやすく言うとどうなるでしょう?(住本)
なんでもエヴァの話ですけど、シンジ君は中二病で、アスカがボーダーラインパーソナリティ、レイが自閉系というモチーフ(山崎)
アスカは自分を見てくれている母親を思い浮かべられない。あれがひとりでいてふたりでいられない状態
レイはつねにひとりでいる人ですよね。微妙にゲンドウはこころの中にいるのかもしれないが…
04:34:09 孤立 isolation と引きこもり withdrawal
孤立を重視
人間というものは最終的には一人であり、誰かとやたらに交流しなければならないというのは病んでいる
クライン派との相違点
引きこもることはよくないが、孤立はよいこととウィニコットは言った
04:37:04 私たちの生きる場所
私たちが生きるのは「遊び」のエリア=可能性空間
現実と空想が豊かに交流
過度に現実的になってしまうとどうしようもない
かといって全面的に空想でもそれはどうかしている
これだけ聞くと当たり前だが、クラインの文脈がある
クラインは真剣に空想を理解した人
それとは別に「遊び」が重要だと言ったのがウィニコット
04:38:55 ウィニコットの治療論
解釈には限界がある
心がうまく出来上がっていない人には環境供給が重要
04:40:33 Kiwata「お母さんとの経験を再現するかんじか。」
コミュニケートせず、待つ
そのうちに必ず治療者は意図せず失敗すべきところで失敗する(外在性に出会わせる)
なにか言うことによって限界を示す
治療者が正しい解釈で患者を動かすだけではなく、まちがった解釈が外在性として患者に意味のあることになることもあるということですね(住本)
母親の適応失敗は、乳幼児が対象を憎むことができるかぎりにおいて、価値がある。
ほどよい母親の話
失敗によって子どもが耐えきれない外在性にぶつかってしまうこともあるから難しい。しかし常に守っていればいいということでないのは間違いない(山崎)
04:47:17 クラインとウィニコットの比較
クライン
欲動論
本能(無意識的空想)によって外部から隔てられている
こころの内側に本能がある
自分の中でごちゃごちゃやっている(PS)→抑鬱を持ちこたえていく(D)
クラインの乳児はストイック(山崎)
04:51:34 ItsukiKamo「体育会系乳児ウケる@クラインの赤ちゃん」
ウィニコット
外傷論があって、それから欲動論
環境としての母親によって外部から隔てられている
心の外側から本能はやってくる
a going-on-beingの状態から外在性にさらされる
ウィニコットの乳児はハッピー(山崎)
どっちが正しいということではない
04:51:06 エピグラフに戻って
私たちは、失敗すること──その患者に固有のやりかたで失敗すること──によって成功するのである
Donald Woods Winnicott(1963)
ここで転移という概念が活きてくる
ブランクスクリーンに患者が投影していると、患者に固有の失敗がでてくる
そのためには時間が必要
04:53:17 kinako_「精神分析医も壊れへんことで関係を築くってことなんかな」
これだとよくわからないと思うので…事例に入ります(山崎)
04:54:39 事例
※事例についてはぜひ配信で山崎先生の発表をお聞きください dotimpact.icon
05:06:54 修正情動体験との違い
修正情動体験:過去得られなかったよい体験を与えることによりよくなる
精神分析とイコールではない
患者にとってなにが「よい」かは、長くつきあわなければわからない
05:09:21 まちがったとき、謝ればいいのか
加害した意図がないのに謝るのは口封じでしかない
意図はなくても、加害したことを認める
傷つきをともに体験し、それを認めること
適度に外在性に触れさせること
「失敗することによって成功する」こと
精神分析が大事にしているのは個人の歴史(山崎)
05:14:08 「外」との接続
外傷論と欲動論
両方必要だよね
責任の所在
外傷論は患者が被害者、必要なのはケア
欲動論は患者があえて言えば加害者、必要なのはセラピー
05:16:59 社会モデルと個人モデル
社会モデル
「障害」を個人の内部ではなく、個人と社会環境の間のマッチングの不調と考える
当事者研究の文脈でもよくいわれることですね(住本)
被害と加害
「「被害者である」と認めることが抵抗への第一歩」
あくまで第一歩
「反復強迫」と「投影同一化」
反復強迫
克服するために同じ状況をつくり、毎回失敗している
投影同一化
「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析」第2部講義メモ#6611388be2d05d00008b9943
「他人から疎まれる」と思っている心が、相手に転移する
意識的に望んでいなくても、無意識に反復を作り出してしまう
どちらが加害で、どちらが被害なのか
中動態
05:24:01 外傷論だけで救われるのか
被害者であると認めることが第一歩であることはたしか
それだけで達成である
インフォームドコンセントの不可能性
説明と同意
同意の責任を終える主体は誰なのか
精神分析は主体を一つと考えない
05:31:11 精神分析から見た「まちがい」
主体化のために「まちがい」「失敗」が必要
べつに主体化したくない人もいる
普遍とかはない、というのが精神分析の基本的な思想だと思う(山崎)
結局、精神分析は何をしているのか
間主体的な事実
ふたりの当事者どちらもその全体を捉えることができない
歴史がある
間主体的な事実を暗黙の前提としつつ、あえて非対称的に扱う
間主体的な事実から患者の主体的世界に向けて語る
ブランクスクリーンで患者が投影したこころを治療者が非対称的に扱う
患者に帰責させる(患者がこのコミュニケーションに対して貢献したことについて考え、それによって患者について考えよう)
一般的に否定したい人から見た精神分析像ってその非対称性だと思うんですが、本来は間主体的なコミュニケーションの中からルールとして非対称性を扱うことで患者固有のものを取り出そうとする営みなんですね(住本)
そうです。そしてそのうちに失敗するんです。そこが勝負の時ですね(山崎)
答えなんかない
トライアンドエラーしかないが、エラーに対して「なんでお前はそんなことしたんだ」と言われる恐怖におびえすぎてしまう
だから、精神分析はあえて「被害ー加害」の関係が起こりやすい設定を作っている(山崎)
そこでのオリジナルな被害体験と異なった扱われ方で患者は被害体験を消化することが可能になる
主体的な心が始まる=自分で考えることが可能になる
05:48:41 精神分析と訂正可能性②
精神分析を「訂正する力が発揮される場を提供している」という観点から理解できる
山崎孝明『精神分析の歩き方』でパターナリズムの話を書いているんですが…僕は野球が、しかも広島カープが好きなんですが…(山崎)
自分は巨人ファンです(住本)
…(山崎)
(その後ディープなプロ野球話 どのようにすれば選手は育つのか)
タオル投げるのが早すぎると育つべき新井も育たないですからね(住本)
でもタオル投げるのが遅すぎて潰れた選手の死屍累々も知っているから…難しい(山崎)
つまり、各自考えてほしいということです(山崎)
05:57:58 質疑応答2
05:58:39 質問者C:精神分析は幼児期の親子関係から生まれると語られることが多いと思うが、事例を聞いていて、親子でないからこそ勝負がかけられるということかと思った。精神分析で、(原因が)幼児体験でない場合はあるのか?
今日ほとんど触れていないが、対人関係論というものがある。サリヴァンは精神分析の幼児期に寄り過ぎなところを批判していて、いじめなど幼児期以降の体験がトラウマになると言っている(山崎)
自分の感想だが、幼児期に原因があるというのは「精神分析っぽい」。しかしそれは治療者側のエゴだと思っている。
現実的に考えればそんなことで全ては説明できない
06:02:20 質問者D:精神分析と少しずれるが、例えば不登校や引きこもり支援の文脈で、メタバース空間やVTuberなどを使った支援というものをどう考えるか。
「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析」第1部講義メモ#660ac1b0e2d05d0000ca3e99 四象限のスライドで、「ふつうの面接」という領域に雑多なものを分類している(山崎)
ウィニコットもずっと移行空間にいればいいという話はしていない。(メタバースなども)移行的なものとして意味があると思う
というのがセラピストとしての回答で、マネジメント寄りに答えると、不登校の子がだいたい小中高生だとして、その子たちに必要なのはセラピストではなく同年代の子たちなので、そこに行くために役に立つと思う。おっさんと話している場合ではない。
成人を対象にした支援としてはどうですか?(質問者)
価値観が関わってくる。マトリックスを肯定する人もいるので。
主体の複数性の話をしたが、意識的には関わりたくないと言っているが無意識的には関わりたい可能性もある。しかし無意識を勝手に推測して本当は関わりたいはずだとするのはよくない
引きこもり支援をする人は、引きこもりを脱したほうがいいと思って関わるわけで、(リアルな関わりへの誘導が)暴力的なのだとしても、暴力的なことが即害だと自分は思っていない
個別のケースによるので、そんなものは意味がないと言うような人はバカなので相手にしなくていい。個別にその人にとって意味があるということは十分ありえる
06:09:27 質問者E:普遍的なのではなく個別的なんだという点がその通りだと思った。個別的な問題については解決も個別的にならざるを得ないが、一方で社会モデル的な解決というか、社会で問題を解決するというの一つのアプローチとしてある。個別的な問題であるということを前提にした瞬間に社会や法が介入することが難しくなっていくが、山崎さんのアプローチとしてはそういうものはない方がいいと考えているのか、それとも被害者であるのを認めることが第一歩だとして、救済方法としての社会からのアプローチはポジティブな意味があると考えているか。
自分はウィニコットを持ってきたように、まずは外傷論だと思っている(山崎)
子どもに虐待があったなら、もちろん社会が介入すべき。しかし、それで終わったと思わないでくれという話をしている。
子どもが介護施設に入って親と離れたら見た目的には解決したように見えるかもしれない。しかし子どもがそこでようやく具合が悪くなれて、問題が始まるということもある。
社会モデル・ケアが第一選択というのが、われわれ世代の歴史から学んでいる部分
自分は上の世代が精神分析に与えたイメージの贖罪をしないといけないと思っている。それは少なくともユーザーにとって重要なこと。自分はそれがしたい。…世の中よくしたいんですよ…(山崎)
06:15:04 質問者F:精神分析の諸元としてのフロイトの重要なこととして、彼が当時最先端の科学で、脳での言語処理を解明しつつあった神経内科の人で、精神分析と言語は不可分だということだと思う。精神分析と現在のLLM(大規模言語モデル)の関係を考えたとき、患者とのコミュニケーションをAIが肩代わりするようなことについてどう考えるか。
これはセラピーが贅沢品なんじゃないか問題だと思う。そちらに行くと思う(山崎)
認知行動療法とかはAIをばんばん開発している。
カスハラ(カスタマーハラスメント)したい人がなにをしたいか。文句が言いたいのではなく人を傷つけたい。ということは人が必要
『臨床心理学 Vol.23 No.3 (2023-05-10)』
「ちょうどいい距離感」をいっしょに探る―自立という名の孤立,ストーキング,そしてパートナーシップ 山崎孝明
「やってもないことをわかったかのように感じる」というのが今の時代の問題だと思っている
なのでスクールカウンセングではハラスメントにならない程度に伝わりそうな生徒には本物の体験を勧めている
06:23:08 質問者G:精神分析家になるには精神分析を受けないといけないとのことだったが、その分析な通常の分析とどこか違うものなのか。またスーパービジョンというのも名前がすごそうだが通常のコーチング的なものとなにか違うものなのか。
精神分析に最大公約数はないので、ある先生に分析をうけるとその先生の分析を知ることはできるが、精神分析を学んでいることになるかというと難しい。訓練分析と一般の治療分析は同じだという人もいるが、自分は詭弁だと思う(山崎)
セカンドアナリシスを受ける人が多い。
スーバービジョンも人それぞれ。コーチング的な人もいるし、日本の分析家のリソースの少なさから本来の形ででないことがされていることもある。
06:30:25 質問者H:自分は高齢者ケアの仕事をしつつ不登校の子供の親でもある。そもそも人とかかわるのが苦手、関わるのに勇気が出ない、勇気が出るおまじないがほしいといわれ、答えに窮することがある。そんな魔法はないことはわかっての問いかけかとも思うが、アドバイスがあれば。
それこそヴィヨンが「家庭に必要なのは精神分析家ではなく父親」と言っている(山崎)
カウンセラーは一般的な感覚からしたらふざけたことを言う
答え方について正解か失敗かというのもそんなにはっきり分かれるわけではない。大事なのはケアしている人が折れないこと
魔法はないので、つきあってあげるしかない。でもつきあうのは辛いということがある。
つきあってあげるために自分のケアをするのが大事
06:34:05 Anya026「コンテインのコンテナー確かに欲しいです。ありがとうございます」
06:33:55 質問者I:精神分析の治療はオープンエンドで終わる時期はわからないという話があった。一方で1セッションの時間は厳密にコントロールされている。東畑開人さんがゲンロンカフェに最初に来られたときに「ゲンロンは終わる時間が決まってないから自分としては怖い」ということをおっしゃられていたのを思い出したが、時間をある部分でコントロールしつつ別の部分では委ねているというあり方についてはどう考えているか。
自分は1セッション45分でやっているが、たとえばウィニコットは90分とか3時間のセッションをやっている。それを批判する人もいる(山崎)
家族の人に「先生はいいところどりですよね」と言われることがある。ケアは24時間365日必要で、ケアがあるからセラピーができるという面がある
セラピーは演技のようなところがある。45分だから演技できるともいえる
オープンエンドという決められていない時間性と、1セッション45分と決められている時間性が重なっているのはどういうことなのかという質問かと思いましたが(住本)
藤山直樹先生は「精神分析は音楽だ」と言っていた。精神分析的心理療法は物語のような面があり、あらすじが作れる。他方精神分析は音楽はあらすじが作れない。倍速にもできない。体験だということ(山崎)
精神分析はリズムが大事らしい。8月は全部休むとか、ずっと供給するのではなく剥奪してもう一度出会うというリズムが人の心を作っていくというロジックがある
06:44:23 質問者J:(事例のエピソードに関して)間主体的で、どちらが主体で客体かの明確な分離ができないときに、逆転移と転移の種別を見極めるプロの目というのはどこにあるのか。またその前提で、ほんとうの意味で相手のこころをわかることはできないと思うときに、相手のこころや精神を理解するということがどういうことなのか。
自分はそのへんプラクティカルで、あまり重く考えていない。効果しか考えていない(山崎)
事例は自分からのビューでしかなく、相手から見たらなんじゃこらとなるかもしれない
事例をクライアントに見せるという立場の人もいるが、それは自分の不安から患者を搾取していることでしかないと自分は思う
転移・逆転移に関しても、区別できないよね、と思っている
自分のスタンスは、結果で判断するしかないということ。それを前もって予測できるかのように言うのは傲慢ではないか
06:50:34 フィナーレ
というわけで、7時間ちかく突っ走ってきましたね! 今日は精神分析の魅力が…(住本)
伝わったと思いたい!(山崎)
06:51:07 na-ya「精神分析受けてみたくなりました」
ありがとうございました!(住本)