質的な問題とは、二項対立にできるもののことだ
よく「量の問題」の逆として「質の問題」という言い方がされるが、前者に比べて後者は定義しにくいと感じていた。
「質の問題」とはいったいどういう性質の区別なのだろう?
現時点での自分の仮説とは「対義語や対比構造にできるものを『質的な区別』と呼ぶ」というものだ。それは以下のように説明できる。
たとえば、日常会話では「止まっている」ことは「動いている」の対義語だ。
しかし量的な観点からは、この説明は間違いだ。
「止まっている」とは単に速度0で動いている状態に過ぎず、そこに本質的な差などないと言いたくなるだろう。
物事を「量的に扱う」とは、このように「対義語だと思ってたものが実は連続的な程度問題だった」とする思考法と言える(ライプニッツの連続律とかね)。
そう定義すれば、逆に「質的に扱う」とは、「連続量だと思っていたものをあえて二項(あるいはn項)のカテゴリで整理する」思考法と言えそうだ。
「速度」という物差しがあるときに、そこから「動いた状態」と「止まった状態」という述語を考え出すこと。これが質的な思考法の本質と言える。
一見そんなのはものごとを本質から遠ざけるだけに見えそうだが、これがどう役に立つのだろうか?
量的な扱いはグラフのような図像的表現と相性が良い。
しかし「止まっている」の例からもわかるように、二項による整理は言語による評価と相性が良い。
言語で評価できるとは必ずしも曖昧になることではない。むしろ離散的な「論理」との相性が良くなることだと言える。
(二項対立にできるということは、二値論理と相性が良くなることでもあるだろう)
逆に言うと、妥当な推論をドライブしないような二項は質的思考の道具としてはできが悪いとも言える。
言語化とは、この意味での量を質に転化する試みのことだ。
「そんなの程度問題でしょ」というと人は易きに相対主義へと流れるが、きれいな説明を発明できるとなぜそれが良いのか(悪いのか)に答えられるようになる。
それは一種の暴力だが、およそものを考えるのに必要な暴力とも言える。グラフだって解釈されなければ始まらないように。
量の問題をただn段階にわけるだけでは「質の問題になった」とは言えない。
(離散的にすることがイコール質的になることとは言えない)
たとえば人事評価を100点満点でつけるのが難しいからという理由で、A〜Eの5段階評価にすると言い出した人がいるとしよう。
私はこの5段階評価を「質的な区分」とは言いたくない。
それは量的な扱いのまま目盛りを粗くしたに過ぎず、むしろ量的思考の劣ったバージョンだと言いたい。
現実的には、「A評価に当てはまるのは〇〇ができるような人で〜」といった基準の言語化が併用されるだろう。
多少は扱いやすくなるが、私はそれでもなお十分に質的な区分になったとは言えないと考えている。
むしろ、このような段階による区分は量的な方法と質的な方法の悪いとこどりとさえ思う。
なぜなら、n段階評価(n > 2, n ∈ ℕ)では程度問題の難しさは実際には解消されていないからだ。また、各段階の境目が本質的にそこで正しいのかは結局は納得いかないままになりがちだ。
ときに、良いカテゴリー化には量的にはむしろ偏ってたりする。
5段階評価をする際、20%ごとに等間隔に切る方法では使いにくいが、分布の偏ったものを 10、20、30、50、80 ... のような段階に切ることで見やすくなったりする。ただこれも「良い目盛りの設定方法」であって、質的に区分したとは言えなそうだ。
性格診断は、その結果の正しさはともかくとして質的な問題を整理している例といえる。
あれは性格という曖昧な概念を2のn乗の組み合わせに分類している(たとえばMBTIなら2^4=16通り)。
あぁいうのは個々の内容の正しさというより、それを構成する二項対立(たとえば人間はそもそもEとIに分けられるという主張)の方に思想が宿るのが重要なのだと思う。
「質のアトミックな単位」を4つ発見し、それに基づいた解釈を発明しているということ。
だから物差しを考えるときは、その取りうる値の数は2個または無限大が良いと思う。
二項対立が発見できないということは、質のアトミックな単位をまだ発見できてないということだ。