「この世には生まれないほうが良いコミュニケーションがある」という意識に基づく配慮
#フィクション を描くときに、読者を傷つけないための配慮を倫理的義務とみなすかという議論がある 具体的な騒動については正直どうでもいいので言及しない
問題は、こうした配慮をうまくやるに当たって「読者を傷つけたくない」という意識は別に持つ必要がないということだ
なくても配慮はできる、と思っている
なくてもできるので、もし自分がこの種の「配慮」をするとなったときにも、あまり倫理的な葛藤を感じないのではないかという直感がある
よく #Twitter がオープンな空間になったことで、「出会わなくていい人たちが出会ってしまった」といった主張がされることがある 私にとってフィクションに関するこの種の問題は、ツイートに関するこの問題と同じという感触がある
つまり「読まれるべきでない人に読まれること」、「この世に存在すべきでない感想が生まれること」をどのように防ぐかという問題である
これを防ぐための技巧が作者にあるかが全てであり、そこに相手に対する心的配慮など必要がない、という点がむしろ興味深いという話をしたい
ブロガーなら文章を書くときに「コメント欄にこういう人が現れると嫌だから、あらかじめ感想を潰しておこう」と考えることがあるはず
私に言わせると、フィクションを配慮して描くことはこの種の技術の延長にある
コメント欄の仮想敵や、クソリプを予め想定するということに近い
「他人の感想を先んじて潰す」という、一見悪意に満ちた行動を「平和利用」することが、私にとっての #政治的正しさ という風に見えている こういう露悪的な意識のもとでも完璧に配慮された(そして面白い) #創作 をできてしまう人は余裕で存在するだろうと思っている というか、生き残ってる人々は基本的にこれが上手いのではないか
よって、「読者を傷つけたくない」という気持ちは配慮にとってなんら本質的ではない
きっかけになることはあるが、それ以上のものではない
当人の意識がどうあれ、そのように振る舞う能力がある人は完璧に「政治的に正しい」のだと言える
「哲学的ゾンビ」ならぬ「政治的ゾンビ」のような
…が、真に正しくあるためにはそう思っていることを他人に隠していなければならない
フィクションにおける配慮とは一種の「避妊」である
なぜなら「この世には生まれないほうが良い感想やコメントがある」から
少なくとも「今はまだ生まれない方がいい感想がある」から
だから、フィクションの内容で炎上した人を見るときの感情は、避妊に失敗した人を見るときの感情とだいたい同じである
だからこそ一種のスキャンダルとして成立するのだ
フィクションを観た後に急いで感想を言おうとする行為は、子供を急いで産もうとすることと「全く同じ」倫理的問題を孕むことになる
孕みだけに
フィクションに対する読者の感想がときに被害者じみたものになる理由は、これが「避妊の失敗」と同じ構造を持つからではないか?
ここには読者というものを、感想を「産む人」と考える前提がある
この前提がない人からはこの種の感情が理解しがたいことになる
「タイムラインに飛び込んでくる創作が配慮されたものであるべき」と考える理由は、「行きずりの人間は避妊をしているべきである」と考えるのと同じということになる
これに反対する立場として「およそすべての読書は行きずりなのだから、最初から感想という産みの苦しみを覚悟しろ」という立場もありそうだが、たいていの人はそこまで考えてないだろう
人間の感情には、人間そのものと同様に「生まれてくる権利」があるという考えが存在しうる
だから、フィクションを読んで湧いたネガティブな感想を抑え込むことは、中絶が悪であるのと同じ理由で悪なのだと考えられる?
裏を返せば、他人の感想やコメントに対して感謝をすることは、「生まれてきた命に感謝をすること」に似ているのか?
「言語化」を肯定することは、これまでなされなかった説明の「出生」を肯定することである
「言語化」というものが単なる「説明」の言い換えではない理由のひとつかもしれない