海辺のカフカ
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これまたびっくりするくらい話の構造はシンプルかつ、多くのにおわせがあって終わる。
moriteppei.icon 『海辺のカフカ』にトランスジェンダーとフェミニストが「男女別トイレ」を巡って論争するシーンがある。田村カフカが身を寄せる私設図書館にある時、二人組のフェミニストの調査員がやってきて「この図書館はトイレが男女共用だから女性は使いにくい」と批判する。言われた司書の大島は言い返すのだが、それを聞いた二人組のフェミニストは性差別意識に凝り固まった男性だと大島を糾弾するのだが、実は大島はトランスジェンダーの男性、もしくはノンバイナリーだっていう。その後もその前も大島の代名詞は「彼」。>
ゲイのトランス男性、ノンバイナリーをシスヘテの男性だと決めつけるフェミニストの想像力のなさを大島は強く批判するのだが、なんかまあいやらしいんだよね。
なんか「フェミニストってこんな想像力ない人間ですよ。ムカつきませんか」と言うためだけに作ったプロットのようでもあるし、大島のセクシュアリティを説明するためだけに、アホでドグマティックなフェミニストを登場させたようでもあり。
想像力ないやつが嫌いなだけだ、フェミニストは関係ないと言いつつ、でも春樹は他の作品の地の文で、女性への性的興味は「健康な男性ならば当然」持っているものだという描写を2回もしてしまうような認識の人間なので、なんだかなあという感じ。
moriteppei.icon 『海辺のカフカ』、主人公の「田村カフカ」が結構頻繁にプリンスを聴くんだけれど、村上春樹とプリンスって精神性真逆なので、プリンスファンの自分としてはめっちゃイラッとする。 村上春樹の主人公って、性的に女性を夢想すること自体が悪いことだと思っていて、だから自慰を我慢したり、「さくらさんの裸を想像してもいいですか」とかいちいち想像の許可取ったりするので、一見「想像ですら女性に気を使う加害性への自覚」を持っているように見えるんだけど、実際上は女性に気軽に性的奉仕(手や口で射精させてもらう)させるんだよね。春樹文学、性欲は強いけどセックスは嫌い。女性に「してもらう」のが大好き。
プリンスはもう全然違うので......。セックス大好き。だって楽しいじゃん!君、とてもかわいいね!って、めちゃくちゃ素直なんだよね。むっつりさがまったくない。
moriteppei.icon 『海辺のカフカ』で「田村カフカ」は「さくらさん」に「さくらさんの裸を想像してもいいですか」っていちいち許可を取りにいくんだけど、村上春樹の「こういうところ」をどう読んだらいいかわからない。
フツーに考えれば、これ、許可を取りにいくこと自体の暴力性の描写であり、少し穿った見方をすれば(というか、そうすべきだと自分は思うが)「性的にまなざすこと自体が暴力」「同意なく性的にまなざすな」というテーゼへの帰謬法というか、バカにしてるニュアンスすら感じる。
「Xさんで性的に興奮していいですか」っていちいち聞きにいくこと自体が単なる性的加害、ハラスメントでしかないので......。
だけれども春樹の「そういう描写」、めちゃくちゃ「天然でやってる」感じがあって、それがむちゃくちゃ気持ち悪いんだよな。
moriteppei.icon 男である自分の性的欲望が加害性を持ったものであることと、どのようにして折り合いをつけていくか。自分が男で、加害がイヤなら、そこを真剣に考えていくしかなく、それは結局①「暴力性を受け入れて、それでも適切な形でその暴力を行使する」という個人的主体的な決定=責任の引き受けと、②社会的構造的な変革へのコミットメントしかないと思うのだが、村上春樹の小説にはまず②の社会的モーメントがない。基本すべて「無意識の」「イマジネーション上の」「戦い」になる。そして①については「自慰すら加害になるのでできるだけしませんね」になるのだが、自慰をしないとどうなるかというと、夢の中に女性が出てきて長時間にわたって全身を愛撫し絶頂に導いてくれたり、硬いペニスを見かねて「単なる肉体のことだから」と割り切ってしごいて射精させてくれる女性が出てきて欲求満たしてくれる。
そんなんだったらセルフプレジャーのほうがよっぽど倫理的じゃん。
moriteppei.icon 結局、村上春樹的世界では、男性が自身の性的欲望の加害性を認めたとして、そこから社会変革には一切向かわないし、なんならそうした社会変革に向かう人たちを「想像力がない」と一蹴するんだよね。
そうすると男性がやるべきことは何かっていうと、性的欲望のコントロールだけになる。想像の中でもできるだけ彼女を犯さないように。裸にしないように。ってなる。でも、我慢してるしこちらから妄想はしてないけれど、向こうから女性がやってくるので、そういうのはありがたく楽しみます、になっていて、結局、「そこ」での責任についてもなーーーんも考えてないっていうか、「ペニスは女性にコントロールされている」かのような話で終わっちゃってる。
moriteppei.icon 村上春樹『海辺のカフカ』。つまらない......。なんだろうな。何かありそうな空気つくるのがうまいんだけど、どうしてもフェイクに感じてしまう。それが味だ、狙いだと言われたらもうどうしようもないけれど。
風俗嬢抱くときにできるだけ射精時間を遅らせるために風俗嬢からベルクソンやヘーゲルの話をしてもらう、風俗嬢が風俗やってるのは哲学科の学費を払うためってエピソードとか、哲学とスケベをわざとこんなふうに組み合わせ、後味悪くすることで、エロシーンの興奮とドン引きをセットにさせるのとか、この手の読者への意地悪、プルーストみたいだし、本当だったら自分はとても好きなはずなのに、なんだろう。なぜかいけすかない。鼻につく。村上春樹のそれは意地悪というより、自分がバカにしている読者への嗜虐心のようなものを強く感じてしまうというか。