李琴峰周辺の問題整理
作家の李琴峰周辺で最近話題になっているのが、彼女とかんぴんたん氏とのやり取りの問題と、自著に祝詞を改変し無断で掲載した問題。周辺のブログなどを読んで思ったことのメモ。結論から言うと、後者は明らかに李が悪いが、前者は李だけでなくかんぴんたん氏やその周辺も問題だ。なお、その他にも李の言動には問題があるかもしれないが、ここでは触れない。 祝詞の無断改変・無断掲載問題
まず、これについて李自身のnoteを読むと、李が句読点や改行を元の祝詞に加えたことは李本人がすでに認めている。 問題はこれが「改変」にあたるかどうかだ。李はこれを「改変」だとは考えていないらしい。
しかし、たとえば李の小説を李の許可なく、勝手に句読点や改行を追加したら、李だってそれを「改変」だと思うだろう。したがって、改行や句読点も立派な改変であることに間違いはなく、また、そのことについて祝詞作成者のこぼね氏に許可をとっていないのだから=無断なのだから、無断改変なのは明らかである。 李自身も改行や句読点の変更について確認を怠ったことを「反省」はしているらしい。
次に李が祝詞を無断掲載したかについてだが、これも著書に祝詞を使用していいか、相手の許可を得ていたことは得ていたらしいのだが、「無断で改行改変したものを掲載していいか」については許可をとっていないのだから「無断掲載」なのは明らかであり、李の言い分は100%通らないだろう。
かんぴんたん氏の「つきまとい」問題
事態は複雑かつ四年も前のことなので経緯も追いにくくなってはいるが、何人かがブログにまとめているので、その情報だけを元にここでは問題を考えてみる。
参考にした記事
Aを見ると、そもそもかんぴんたんが李の言動で問題にしたのは、GoldFinger事件についてそんな事件が「起こった」と書くことで、シスジェンダーがトランスジェンダーに対し「起こした」事件であることを矮小化しているというもの。また、現状、シスジェンダーがレズビアンスペースを「占有」していることを李が認めていないことを問いただしている。これについてはその問いただし自体は妥当だと思うし、有意義な問題提起だと思う。 李自身もこれに対して、GF事件はGF側に非があると思っていると同意している。「占有」については認識と違うとしているので、意見の相違が見られる。実際にビアンスペースを利用しているトランスジェンダーもいるということから「占有」ではないかのように言う李に対し、それだけではシスジェンダーによる「占有」であることは否定できないと、かんぴんたん、およびりんごのうえん側は考えているようだ。「占有」という言葉を双方が別の意味で使っている。
「“《トランスの女性》は《女性》の外集団ではなく内集団であり、《トランスのレズビアン》も《レズビアン》の外集団ではなく内集団です。勝手に外に放り出して「隣人」にしないでください。」というかんぴんたんの指摘は、一見もっともなようだが、あてつけ、曲解にすぎる。というのも、李だってさすがにトランスのレズビアンもレズビアンの内集団であると認めるだろうし、ただ「トランス」と「シス」という点では異なるが、それでも隣にいるという意味で「隣人」と使っているだけだから(DMで李は実際そのように説明している)。何を「外」で「内」とするかは単に視点をどこにするかの違いでしかない。逆に「隣人」ではなく「内集団」だというなら、シスジェンダーのレズビアン【が】トランスジェンダーのレズビアン【を】排除したということにも十分な意味を与えられなくなってしまう。
これに対し李がかんぴんたんにDMを送る。DM送付の是非はさておき、DMの内容を公開したのはかんぴんたんである。DMの内容を無断で公開していいのか? また李のセクシャリティやアイデンティティについてある種の決めつけをかんぴんたんは行っている。これはかんぴんたんが悪いのではないか。(その後、アイデンティティの決めつけについてはかんぴんたん自身もよくないと認めているらしい)
李のDMは非常に丁寧で礼儀にのっとったものである。また書いていることはあくまで自分の発言において、誤解である旨、説明をしているだけである。
また「DMでの非公開のやり取りは、裏でコソコソ脅されているようで、私は恐怖を感じます」とかんぴんたんが李に告げたあとは、その旨了承したという返信しか李はしていない。これに対してかんぴんたんは「DM公開も検討する」と言っている。こっちのほうがどう考えても脅しだろう。
「敵を誤るな」という李の指摘は誠実さに欠くと思う。
DMでの非公開のやり取りが脅されているようだというが、表でやればやったで「公開でバッシングしようとしているように感じました」とも言える。李はこれは別に裏でコソコソしたいからDMを送ったのではなく、普通に考えれば「長くなるので個別に丁寧に対応しようとした」だけだと取るのが妥当だろう(そうした態度であることが妥当であることと、その内容が妥当かはまったく別のこと)
「私はあなたがシスジェンダーであ(りながら勝手にその特権を手放し対等な立場に立った気になってい)ると認識していたのですが、あなたはシスではないのですか?」とかんぴんたんは李に送っているが、むしろこっちの返信のほうが大大大問題ではないだろうか......。
相手から送ってきたDMについては「脅されてるよう」だからもう送ってくるなと言い、他方で自分は「DMの公開も検討」と相手を脅し、さらにはジェンダーやセクシャリティについて、当事者に踏み絵を迫り、しかも「ご連絡は、ご自分のツイートとDMをもう一度ゆっくり読み直してから」にしろって......。なぜかDMを送るな、送るときはこうしろとなぜかかんぴんたんが一方的に指示しているし、
ましてや李は「トランスジェンダー」であるというデマを流されている当事者である。詳細は述べないが、そこには様々な事情を想定もできる。たとえかんぴんたんがトランスジェンダー当事者であったとしても、関係性もろくにないどころか、相互に不信感を持っていると強く想定される関係において、トランスかシスか、気軽にたずねていいことではまったくない。この点についてはどう考えてもかんぴんたんが悪い。かんぴんたんは李にこの件について謝罪をしたのだろうか。
「百田尚樹がトランスジェンダーだと言ったら当然排除する」という李の主張も誤解されているのでは。身体的な特徴やジェンダーエクスプレッションがどうであっても、本人がトランスジェンダーだと言えばそれを真剣に受け止めるのは李だってそうだろう。ここで百田の例を出したのは、明らかにレズビアンコミュニティへの害意をもって嘘を言っている人間の例として、李が百田をあげているのは明らかだろう。
もちろん例示として不適切であるし、誤解を与えかねないのはそのとおり。そういう意味で李にも問題がないとは思わないが、全体的に李の発言を彼女の言いたいことが本当は何なのかを考えず、「こういうふうに「も」取れる」というだけで、そっちにとってする批判が多すぎないか。「こうも取れるので問題です」の前に「あなたが言いたいのはこういうことだろうと思います」という同意や理解を示していれば、李も指摘を理解しやすかったのではないか。
李に対しては「脅されているよう」に感じるからDMは送るなといい、言及するのもやめるように誘導しながら、その後、李が嫌がるだろうこともわかった上で、4年にもわたり、執拗に李に言及しつづけるのもどうなのか。差別があったのでその糾弾をしているだけだということなのだろうが、李だって人間である。李の元の投稿に問題がないとまでは言わないが、どこまでも相手が精神的に疲弊することをやっていいことになるのか?というのも疑問だし、李が言いたいことと、そこにリプライしたりんごのうえんやかんぴんたんと、相違点よりも共通する点のほうが大きいように思われる。
https://gyazo.com/b8f43bf31751cde0349d4e288aa224c1
(A)の記事より。李とかんぴんたんとで先に言及してきたのはかんぴんたんからだということと、かんぴんたんより先にりんごのうえんが李に言及していることは別に矛盾しない。こういう「矛盾しないのに相手を悪く見せる言い換え」のようなものが双方のやり取りを見ると頻繁に出てくる(李のほうにもそれがある)。
その後、李は自身の著書でかんぴんたんをモデルとした人物を登場させる。これについての是非は判断が結構難しいのでは。柳美里にも確か似たような事件があった気がする。 李の発言に誤解の余地や問題がないとは思わないが、そのこととそれが差別であることと、李自身がヘイターだということはまったく別のことだ。李の発言には問題も少なくないと思うし、それらに対する指摘は一定程度妥当だと思うが、だからといってそれだけで李が差別をしているとまで言えるのかは疑問だし、差別はヘイターでなくてもする。李がヘイターだとまでは少なくとも言えない。 ちなみに自分は李琴峰の良い読者であるとは言えない。彼女の小説は『彼岸花が咲く島』まではだいたい読んだが、あまり感銘を受けなかった(作品としての強度が優れているとは思えなかった)。他方でかんぴんたん氏には過去に一度私は会ったことがあると思う(勘違いだったらごめんなさい)。