差別はヘイターでなくてもする
授業や研修で、 マジョリティ性/マイノリティ性の話をすると、学生や参加者のなかに、 自分のマジョリティ性にではなく、マイノリティ性にばかり目を向けて、どんどんいくつものマイノリティ性を見つけて、マジョリティとして免責されなくてすむ位置に自分を置きたがる人たちが一定数います。 それってどうしてなんだろうと考えると、一つの理由はここまで話してきたように、差別の問題あるいは特権の問題が、 道徳的なアリーナの問題として語られてきた、 理解されてきたことにあるように思います。 「差別をしているとしたら、 自分は悪い人間になってしまう。 でも、 自分はそこまで悪い人間ではないはずなので、 完全なマジョリティではないはずだし、その意味で大きな特権ももっていないはずだ」みたいな理解をし、 自分を免責しようとする力が働いてしまうのかな、と。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 138ページ さっきの謝罪の話にもつながるかもしれないですけど、失敗するのは当たり前なんです。 私自身も、もちろん差別的なことをする場合もあるわけで、 そのときにいかに誠意ある対応をするか、 ということでしかない。「他者の傷つきやすさ」 と 「失敗するのは当たり前」とを、ゆるく共存させていく。 限界もあるだろうし、難しいですけどね。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 142ページ 清水: つまり、個人の内側に「悪い差別の芽」 みたいなものがある人とない人がいて、一回でも差別的なことを言ったりそういう効果があることをしたりした人は 「差別主義者」に分類される、 みたいな発想ですよね。 「一回でも差別した人は、 悪い人だ」 と。 差別を指摘する側も、 あるいは指摘されてムカついている側も、 そこを共有していることが多い。 逆に、そういう個人の資質が問題ではない、 構造的に不均等な権力配分や不利益に個別の発言や行動がどのように影響するかが問題なのだ、といういわば基本の部分が、意外に共有されていかない。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 15ページ 「差別をした/する人」と「ヘイター」を論理的に分けるべき。 差別をしたら即ヘイターだという主張は、ヘイターでないなら差別をしてないと言ってるのと同じ。(対偶) つまり多くの「自分はヘイターではない」という主観を持っている人たちに「自分たちは差別をしない」という「そんなわけないだろ」な思い込みを許してしまう。
むしろそうした思い込みをしたいがために、やたらめったらヘイター認定をして、ヘイターのインフレを起こしてる可能性すらある。 差別をしたくないけど差別をしてしまった時にそこにどう向き合うかを考えることと、(こちらも数少ないが存在しないことはない→)差別者だということで相手を支配しようとする人や組織への対応を学ぶことは今後必要になっていくだろうと思う。。。この後者はなかなか語り難く、難しいのだが。。