彼岸花が咲く島
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非常に程度の低いSF......みたいな感想しか浮かばなかった。
主人公は意識と記憶を失い、とある島の海岸に打ち上げられる。その島では「女語」と呼ばれる言葉を女子だけが話し、女だけがノロという、歴史の継承者になる......みたいな設定で、その、いちいち世界の設定を読み込んで理解し「ああ、現代日本社会でいうコレね」と解読した結果、描かれてるのは「現代日本社会はけしからん!」みたいなことで、非常に図式的で、小説的な「うまみ」に欠けるというか......。
「まさかそういうオチではないよな」っていう、そのまさかな、誰でもだいたい想像つくだろ!っていう「島の真実」が後半で語られるんだけど、真実が明かされたときにがくんと膝がくずおれおちそうになった。
ぼくは著者の政治的スタンスに異論を持つものではないし、問題意識はわかる。なんなら読む前までは大変な期待をしていたし、ワクワクしながら本を手にとった。好きになれそう、と思った。が、単に小説としての評価として、これは端的に「おもしろくない」。
すべてが図式的なんだよな。女性が権力を持つ社会がどうやって成り立っているのか、それは実はまた別の抑圧を内包しているし、トランスジェンダーに対する抑圧が働くような社会でもある。決して理想郷として島を描いているわけではない。
ユーモラスなところがほとんどないのも辛い。
書かれていることがだいたい情報で、それも社会に関する情報であり、登場人物については、なんやようわからん、でも、そうなるからそうなってるだけ、みたいな人ばかりで、社会を説明するための道具でしかない。
彼岸花をビアンバナーとよませるような「言葉遊び」にも苦笑。コレを褒めている人は、小説音痴かもしくは政治的な同志ってだけでは?
たぶん笙野頼子的な想像力の書き換えというか、反転というか。そうした面もこの作品にはあると思うんだけど、そういう意味でも、笙野のような文体や描写の魅力を感じにくかった。
想像力でSF的な設定を駆使するには、この人は真面目というか「いいひと」すぎるのかもしれない。
これで三島賞、芥川賞かー。全然わかんねえや。
途中明かされる「島」の歴史ってのが、本当に凡庸で陳腐で「その程度の警告がしたいくらいだったら、島だのなんだのの設定はやめて、140字で済ませてほしい。リツイートするから」って思った。
女性だけの彼岸花=ビアンバナーの咲く島が、結局薬物の売買で成り立つ、資本主義社会の国際分業の一部でしかないこと、男性の支配を避け、女性による支配を貴ぶ島が結局性別による役割分担の逆転でしかなく、女性の役割と担いたいと思う男性=トランスジェンダー的な男性にもそれをさせないというところに、一種の批判意識はあるものの、いや、そんなこと、そりゃ、え、そのレベル???って話で。
先日、話してた「韓国文学(イメージ)のつまらなさ」。その「つまらなさ」の部分だけで構築したような真面目文学。本当に何がしたいの!
主人公はその島に外から流れついてきた設定で、中で過ごしながら、言われたとおりに島になじむしかなく、だからずっと「この島はこういう島ですよ」という「カメラ」の役割しか実際上は与えられていない。その「カメラ」も非常にご都合主義で、ちょうどいいときにちょうどいい塩梅に昔の記憶がよみがえる(笑)。
三人称の物語の語り手(って言わないか。まあ、そういうの)と、視点となる主人公女性と、島の人たちと読者と。4つの常識なり知識レベルがあり、結局、読者の知識レベルでだいたい話は済んでるので、SF的な興奮にもとぼしい。
李琴峰はレズビアンを公表しているようで、その問題意識はわかるけど、だからってそれで文学的に魅力のない作品に賞をあげるの、それってどうなの?って思う。
言うても、その「問題意識」というのが文学的というより、非常に社会的......。
その割に、本当に大事なところはまったく描かれていないし、想像させる、させようという描き方すらしていない。
だから、たとえばこの島の中でセックスはどうなっているのか。リプロダクションはどうなっているのか。「説明」はあるけれど、説明だけされて、たとえばその説明対象が我々の住む社会のそれだとして、納得します?
性愛一つとっても、そのだいたいはこんな感じとか、この社会ではこうなっている、って説明はできますけど、そこでの悩みだったり、機能だったりを実際的局面で描けないですよね。
しつこく李琴峰の批判ばかりで申し訳ないけれど、でも、重要なこととして。この人、確かにレズビアンで台湾出身ということで日本ではマイノリティだから、そういう意味ではマイノリティ視点と言えるけど、他方で台湾から日本の早稲田に、修士までいかせられるような階層の出身で。それはいいとして、作品の舞台を「島」に設定しているのが欺瞞に感じるんですよね。なぜなら島には階層がないから。
なので「私らレズビアンは生産性がないと言われ、本国を追われる」だけでレズビアン視点も実は終わってしまっている。本来であれば、インターせくしょナリティから「そういう自分の、早稲田までいけちゃうようなレズビアンの体験とそうでないレズビアンの体験がまったく倒立していることだってありうる」こそ、文学的な素材として描いてほしいのに。
ましてやご本人は、芥川賞も受賞してしまったわけで、マイノリティである側面は否定しないけれど、他方で圧倒的な強者に様々な面でなってしまっているところがある。
以前、清水晶子の本で対談相手として出てきた李琴峰に驚いたことがある。なんかものすごーくストレートに清水に質問をするんだよね。それが自分はおもしろかったけれど、考えてみれば、ちょっとシンプルすぎないか?ってなる。