政治的に正しい作品が商業的に正しい
これらの作品はしばしば 「PC的」 と称されたが、とりたてて革新的な主張や表現をしているわけではなく、むしろ「できるだけ多くのオーディエンスに届くためにはこういう表現になるよね」 というスタンスで製作され、さらに作品の公開に当たってそれが公言され、 宣伝されたものであることに注意したい。 『アナと雪の女王』や『ズートピア』は 「恋するディズニー・プリンセス」の路線から踏み外すことこそを作品の魅力として宣伝する。『エイリアン』のリプリーや 『ターミネーター』のサラ・コナーがいわば例外的に、 そしておそらくは意図せずしてジャンルのフェミニスト・アイコンとして成長を遂げたのに対し、『マッドマックス怒りのデス・ロード』や『ゴーストバスターズ』は、男性主人公が担っていたシリーズ/作品を今度は女性主人公で蘇らせることを、最大の「売り」 とする。つまり、これらの作品はいわば 「女性をこう描くほうが作品は売れる」という認識に基づいて製作され、 そして実際に売れたのである。 その意味で、これらの作品は 「政治的に正しい」 作品というより、「商業的に正しい」 、 あるいは「販売戦略的に正しい」 作品、 と捉えられるべきだろう。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ 57ページ こうして日本で、 アメリカをはじめとした 「社会的な望ましさ」が一定のコンセンサスになっている国の作品を目にする機会が飛躍的に増えた。 しかもそこで目にする作品の多くにおいては、 (これらはそもそも矛盾するものではないが、 あえてこのような問題設定をしてよければ)「望ましさ」 と 「おもしろさ」 の共存が当たり前のことになっている。清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子. ポリティカル・コレクトネスからどこへ・178 ページ