エイリアン
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そんなレベルの映画知識の人間が、でも、映画って知識で見るものじゃないし、知識があるって単なる暗記だし、暗記さえしとけば自分はおもしろいこと言えてるって思ってるつまらない人間だっているんだから、全然気にせず好き勝手なことをこの映画シリーズについて言うけれど、まあ、このシリーズ、全然、エイリアンが恐くないですよね。恐いのはエイリアンじゃなくて人間。労務環境。 とにかくね、人間が「エイリアンを地球に持ってかえりたがる」んですよ。そのために労働者(第1作)、軍隊(第2作)を送りこむ。エイリアンって唾液が酸ですよ。強度の酸。持って帰れるわけないじゃんね。でも、会社は、国は、「こいつ、武器として利用できんじゃね?」とか考えてる。アホ、アホだなあ.....アホだよ.....。この「人間ってアホだなー」「そうだよアホだよ」っていう軟式グローブなリフレインがエイリアンシリーズの根幹思想なんだよね、まず。 恐怖っていうのは「他に選択肢がない」、つまり「逃げられない」から感じるし、強まるものなのに、このエイリアンシリーズは実は冷静に見ると「いや、やめたらええやん」でしかないことが多いんだよ。
たとえば第1作目。見たそばから早速こまけえことは忘れましたが、ノストラモ号っていう輸送船?で宇宙空間を移動してる。もうそろそろ地球に帰るよってときに、とある星に寄り道をしろって「上から」言われて、寄り道するんですよね。で、そこで船員の一人がエイリアンに寄生されてしまうっていう。
寄生されたんだから見捨てるとか、隔離するとかすりゃあいいのに、その逆ばっかやろうとする。シガニ―・ウィーバー演じるリプリー中尉は「危険よ」だの「規則に違反してる」だの言って止めようとするんだけど、船長がそれを無視ばっかするのね。で、案の定、エイリアンが暴れまわって、船員が、リプリーを残して全滅してしまうと。 これ見ててもう、ちっともエイリアンが恐くない。どう考えても恐いのは「規則だってのにそれを適当にやぶる人間」とか「船員犠牲にしてでもいいからエイリアンを地球に持ち帰ろうとする愚かな就業先企業」であり、「そうじゃなかったらこんなことにはならんかったなー」で終了。
(それでいくと花束みたいな恋をしたのほうがよっぽど恐い。坂元裕二のあの脚本、この作品、見ながらなんとか「それ以外の道」はなかったのか?って考えちゃうんですけど、ないんですよね。作中で「恋愛生存確率」みたいなセリフがあるんですけど、まさに確率。恋愛ってたまたま確率的に生存してしまったものと、そうできなかったものとかがあって、そのどちらになるかを実は人間は選べない。恋愛映画だっていうけど、エイリアンなんかよりよっぽど道がなくて、恐いですよ。) もちろんこの「逃げ道」を封じるために、実は「いや、逃げられなかったんだ」「こうなることはさだめだったのだ」と思うしかない仕組みを第一作ではとってるんだけど(実は船長が最初からエイリアンを地球に持ち帰るための仕込みだった)、でも、それを加味しても結局残る感想は「労務環境ってのは人間を平気で殺すんだな」「人間が愚かでさえなければ」という別種の恐怖でしかない。なんとなくのイメージで「ひょんなことから宇宙でエイリアンと接触してしまった不幸な話」と思い込んでいたが違った。
でも、まあ、それでも第一作はまだエイリアンが恐い。それには理由がいくつかあるんだけど、1つは、これは「仕組まれた罠」だったってこと。船長は実は会社の密命を受けているアンドロイドで、最初からエイリアンを持ち帰ることがノストラモ号の「隠された任務」なのだから、リプリーはこのシチュエーションを回避する方法が原理的にない。これは恐い。
そしてもう1つの理由は「エイリアンがあんまり見えない」こと。いや、お金を払って映画を見にいってんだし、それはエイリアンっていう現実にはないものを見たくてそうしてるんだから、もっとよく見えるように見せてくれって思うのだが、エイリアンは当然生き物だし、止まってないし動いてるし俊敏だし、「シャーーー!!!」みたいな感じで急速に襲い掛かってくるので、まったくよく見えなくて、正体がなんだかわからない。たぶん撮影技術や予算上の制約もあってのことなんだと思うけど、それが逆に、エイリアンの恐さを高める効果につながってる。見えないもののほうが恐いし、なによりエイリアンは本作で初お目みえ。生態も行動パターンも知能レベルも何もかもわからない上に密室だから逃げ場がない。まだこの頃の『エイリアン』はエイリアンが恐かった。
ところが第2作になると、この2つの「エイリアンが恐い理由」がだいぶ緩和されてしまう。
まず、2になって思ったことは、結構エイリアンが姿見せるんだなってこと。これは「せっかくなんだからもっとエイリアン見せて」という、動物園的なニーズからすればプラスなんだけど、姿を見せたエイリアンは、まあ、もう、見えたまんまの生き物なわけだから、以前よりかは実は怖くない。「こんな姿してたのかあ」「よく見えるぞ」てなもんで。
あと、こっちがより重要だけど、第一作と違って「仕組まれた罠」じゃないんだよね、これ。せっかく救命ボートで逃げて地球に無事たどり着いたリプリーなのに、また、わざわざエイリアンがいるコロニー惑星まで、ノコノコ自分から出向しちゃうんですよ。もうこの時点で「なんでそんなことするん?」じゃないですか。しかも、リプリーがエイリアンのいる惑星まで行く=エイリアンを地球に持ち帰ろうとするやつを利する可能性があることなんだから、「マジでやめろ」「つーか、リプリーはエイリアンに会いたがってないか?」という気持ちにすらなってくる。ましてや、第一作目で「企業はとんでもないことをする」を体験したんだから、そのことを学んでいなきゃ、これじゃリプリーはただのバカである。
もちろん、そこは制作側も当然わかってて、だから「エイリアンの悪夢を見る」「あいつから逃げてるだけじゃダメだ!」「倒して乗り越えて生きるんだ!」「でなきゃ私は安らかに眠れない!」という動機付けがリプリーにはなされているし、コロニーにはエイリアンから逃げてる少女がいて、この子からのSOS信号でもあったようなので、「少女をなんとか助けるためにリプリーは戦う!」になっている。なんならこの第2作は、異種の生命体、その母と母がお互い命を守る育てるために身体まるごとぶつかって戦う!がテーマになっていて、それはわかるしかっこいいのだけれど、でももう戦力は圧倒的に違うんだから、エイリアンがいるような危険な惑星には行かないしか選択肢なくない?って思ってしまう。
それでも、映画をラストまで見たときは、少女が助かりますから。「ああ、リプリーがエイリアンと戦って、少女を助けた。決して意味がない行動じゃなかったんだ」と納得したのに、今度は続く第3作ではのっけから、その、2で助けた少女が死んでる。「なにやってんの?」って思うのが当然で、ここらへんからシリーズは「くっだらねえ不条理なんだから楽しめばいいだろ」感がますます強くなる。まあ、リプリー行くところ必ずエイリアンが襲ってくるって時点で「殺人事件を無くしたいならコナンさえいなければいいのではないか」みたいな話になるから、元から「笑えるもんとして見てればいい」って話なわけだが。
その3作目になると、もう「エイリアンが恐い」を諦めてるどころか、「エイリアンは恐いわけじゃないってもうみんなわかってますよね?」という確認作業だとすら言っていいかもしれない。第三作はシリーズ中、もっとも文学性が高い『エイリアン』になる。リプリーは作中、なんだか突然セックスするし、なんなら本作の舞台は宇宙にある男だけの修道院兼核廃棄物処理場、その中で起こる凄惨な連続殺人事件......となればこれはもうほとんど薔薇の名前だ。 3は4を除くと本シリーズで最も「エイリアンが恐くない」。それはなぜかを見ながらずっと考えていたのだが、要するにその理由とは、地球から遠く離れた星で、改心したとは言え、全員前科持ちのどうしようもないクズどもが、エイリアンに殺されようが何されようが正直そんなことはまったくどうでもいいからに他ならない。エイリアンがどんだけ恐ろしかろうと、唾液が酸だろうと気色悪かろうと、エイリアンに宇宙船は作れない。余計な罪深き連中がその場でくたばってくれれば、むしろそれが地球という美しい惑星とそこに済む多数の無辜の民からすれば「ハッピーエンド」なわけだ。
それでも唯一、リプリーは生き残れるのか?が気になるポイントではありうるのだが、そのリプリーも、どうやら宇宙船の中でエイリアンに既に寄生されていたようで、「実は映画の冒頭のあの時から助からない確定だったんだよねー」と映画の途中で言われてしまえば「そっか」である。なかなか死ねないのはわかるけれど、リプリーが死ねば万事解決。ここまでシリーズに付き合ってきたら「どうせみんな死ぬんでしょ」。どこかもうスカッとした気持ちになっているので、それぞれのキャラがどのように殺されるかが楽しみ。殺されるバリエーションやパターンを賞味するこの気持ちは既にそっくりエイリアンサイドになっている。
エイリアンシリーズで大事なことはたくさんあるが、そのうち最も重要なことの一つが「人間は一切学習しない」というテーゼで、毎回リプリーがエイリアンのヤバさを訴えるんだけど、聞いてるほうのリアクションがいつも同じ。「大丈夫」「そんな化け物いるわけない」「上手くやれば人間の役に立つのにもったいない」「もし来たらこの武器で殺してやんよ。ガハハ」みたいなリアクションをシリーズ通して毎回されるリプリー。3の頃にはもうすでにリプリーのほうが、ほうだけが、人間がいかなるリアクションを取るかについて学習してしまってて、「まあそうでしょうね。信じないでしょうね」「やっぱりね」「まあこのパターンだよねw」って若干薄ら笑いすら表情から見える。視聴者も「だよな」ってなる。人間は学習しない。リプリーと視聴者は学習する。結果、総合的に相対的にエイリアンはどんどん恐くなくなっていく。
3で死んだリプリーは、4ではなんとクローン技術によって復活する。副題がThe Ressurectionとかなんとかってついてて、前回3あたりから気になってはいたが、エイリアン。やたらと宗教臭い。レザレクションってキリストの復活とかそういうことだよね。前回リプリーが死ぬシーンなんかもやたらと宗教っぽかったし、リプリーという光のあるところ、エイリアンという闇が必ずついてまわる、みたいな世界観がなんかものすごく「西洋っぽいなあ」(いい加減)と思うのだが、その宗教っぽさの延長なのか、「恐いのはエイリアンじゃなくて人間」ってイマジネーションが全編に横溢していて、気分はもう完全に「エイリアンがいいもんで、人間が悪いもんだよね」ってなもんだ。
リプリーはエイリアンに寄生されたおかげで遺伝子情報が混ざり、半エイリアン半人間みたいになるし、ウィノーナ・ライダーは実はアンドロイドだし、それに対し、人間はオスは基本ゴリラ顔、サル顔ばっかりでそろえてて、とにかく頭の悪い、野蛮なことばかり言う。そんな風に意図的に描写されている。リプリーが強くなりすぎたせいで、そしてウィノーナ・ライダーがちっちゃく、リプリーと一緒に歩こうとすると歩幅小さくてぴょんこぴょんこするので、どこか存在自体が軽く、そのため、エイリアンが追ってきていてもどこかまったく緊張感がない。 とまあ、そんな感じで、シリーズ通して「そもそも恐いのはエイリアンではなく人間である」「人間は学習しない。文明は進むがどれだけテクノロジーが発達しようとも、基本はアホでどうしようもなく欲深いだけのサルである」をつきつけてくる『エイリアン』のおかげで、なんかだんだん映画の中で人が死ぬのが恐いと思う気持ちが克服されてきたよ。