廻り逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな
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説明不要、『源氏物語』『紫式部日記 』の著者にして、大河ドラマの主人公、紫式部である。この歌には詞書、つまり「歌を読んだときの説明書き」がついており、それによると、幼馴染と偶然会えたが彼女はすぐ帰ってしまった、その時に詠んだ歌だという。「めぐりあってせっかく見えたのに、それかどうかわからぬ間に雲隠れしてしまった真夜中の月だなあ」の意。 もちろんここには詞書がついているので、この「月」とはその幼馴染のことも重ねられているだろう。「月」が現れすぐ隠れてしまった。それと認識できたかできないかという一瞬の「今」が歌われているのだが、昔はよく会っていた幼馴染と「廻り逢ひて」というところから、それなりに長かった、でも、あっという間に過ぎ去ってしまった「過去」が思い出され、重ね合わさされることで、歌の中に広大な時間の幅が詠みこまれている。
人と人が出会い、別れる。そういう意味では同じく百人一首にある蝉丸の「これや此の行くも帰るも別かれては知るも知らぬも逢坂の関」も思い出される一首だ。「会えた」という喜びもあるのかもしれないが、昔は毎日のように会っていたのに、今は「それともわかぬまに」、つまり「あなただと/月だとわからないうちに」見えなくなってしまう、今はもうそうなってしまったという切なさもここにはある。「月」と自分は遠く離れており手を伸ばすこともできないし、間に雲があって自由に見ることもできない。その昔の友人とのどうすることもできない距離。けれどもだからこそ、その一瞬の「見えたのか見えなかったのか」「本当に月だったのか違ったのか」の一瞬がどこまでも、じっくりと凝視できたときよりも尊いのである。 詞書はそうなっているけれど、そこから離れた解釈だって可能だろう。「月」を恋愛の対象としてもいいかもしれない。自分が人生を賭して追いかけている夢や望みだととってもいいかもしれない。手に入れたいそれは、手に入ったかどうかわからないうちに隠れてしまう。見えなくなってしまう。それがそれだったかどうかわからぬまに。だからこそなおさら「あはれ」なものなのだ。240313moriteppei.icon