これや此の行くも帰るも別かれては知るも知らぬも逢坂の関
https://gyazo.com/1ab6c5b1133c33052a301e93b64a9ee7
この蝉丸という人も、ほとんど何も知られていない謎の人物だ。情報は少ないのだが、一説によると盲目だったとも言われており、実際、自分が持っている百人一首の札には目をつぶった蝉丸が描かれている。 「これや此の」は「これがあの」「これこそが」といった意味。「行くも帰るも」は「行く人も帰る人も」。「知るも
知らぬも」も同じく「知っている人も知らない人も」。つまり「これこそが行く人も帰る人も知ってる人も知らない人も別れては出会うという逢坂の関か」の意。人生、人間交差点、傷つけずには愛せないクロスロード。何も説明しなくても。この感慨は現代人にもストレートに伝わる一首だろう。
人の気持ちや感情を詠んだ歌も多い百人一首だけれど、逢坂の関(京都と滋賀の間にある)という場所にフォーカスしたこの一首の印象は格別で、それは、「こ」れや「此」「の」、行く「も」帰る「も」知る「も」知らぬ「も」と繰り返しオ段で開いて、最後は体言で逢坂の関という場所に凝集していくことでも強められている。
人生出会いあれば別れあり。どちらもある、という感慨もあるが「どちらも実は同じことだ」という感慨もここにはある。「逢坂の関」なのだから「出会い」だけを感じ取ればいいものの、蝉丸は出会いの中に既に「別れ」も見ている。出会うとはすなわち「いつか別れる」ことだから。別れは出会いの未来なのである。
「行く」と「帰る」も実は同じだ。行ったからにはいつかは帰る。50日以内にDIOを倒すためにエジプトに「行く」のも(『ジョジョの奇妙な冒険』)、蝦夷地に探検に「行く」のも(『ふしぎの国のバード』)、緑の中を真っ赤なポルシェでひとり旅気ままにハンドル切るのも(「プレイバック Part2」)、先に進めば進むほど、急ぐその旅路は帰路でもある。 出会うとはすなわち別れることで、行くとはすなわち帰ること。そう考えると、なんだか達観するというか、ある種の無常を感じもするのだが、そうした出会いと別れのすべてと「出会い」「別れて」いるものがある。逢坂の関だ。この歌が、超越的な視点を持ちつつも、実際の現実生活、いわば地べた目線の泥臭さのようなものを感じさせるのは、逢坂の関という、この地上にある具体的な場所を歌の中心に据えているからだ。
「人生すべて出会いと別れよ」「出会いも別れもこれすなわち同じことよ」。口で言うのは簡単なのだが、あまりにも達観したことを言うと、どこか天上からまるで自分だけが特別であるかのように人間全体をひとまとまりに対象化して語ってしまいかねない。けれども、そんなメタ視点のちょっとした思いつきなんて、実は実際に生きる一つ一つの生命と比べたらペラッペラに軽い。生きとし生ける一人一人に暮らしがあって、理由があって、争いがあって、ブルースがあるのである。moriteppei.icon240225