大東亜戦争
日米開戦へと踏み切ることになるのだった。 しかし、もうここまで来ると私たちは、 当時の日本が何を守るべき素面とし、 何を敢えて被っている仮面としているのかが見えなくなってくる。 そして、 そんな自己喪失の果てに唱えられたのが、 あの 「大東亜戦争」 の理念だったのであれば、やはりそこには近代日本の無理が凝縮されていたと言うべきではなかろうか。 実際、 「東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す」とした「大東亜戦争」 開戦の詔勅自体が、その不可能性をよく示している。 帝国主義からの解放 (東亜永遠の平和)のための帝国主義戦争 (帝国の光栄) という自己撞着的表現において、 それは、 日本近代史の切りのなさを、あるいはその空想性 (ユートピア性)を告白しているように見えるのである。反戦後論 浜崎洋介 65ページ かつて竹内は、 「大東亜戦争」 開戦当時に議論された 「近代の超克」 について、 それを 「日本近代史のアポリア(難関)の凝縮」 だと評した。 が、 同じことは日本近代の戦争史全体にも言える。 すなわち、 日本の戦争そのものが、近代化 (帝国主義化) しなければ自主独立を果たし得ず、 しかし近代化 (帝国主義化) すればするほどに己の素面(アイデンティティ) を見失わざるを得ないといったアポリアの中にあったということだ。反戦後論 浜崎洋介 65ページ しかし、 だとすれば、 日清、日露は肯定するが、 大東亜戦争は否定するといったような議論がナンセンスであることは明らかである。 既述したように、 近代日本は日清戦争から大東亜戦争までの歴史を、 一つの切りのない“運命”として生きたのであり、 そうである以上、 大東亜戦争が 「罪」 ならば、 日清、日露も 「罪」 であり、果ては日本近代史そのものをも 「罪」 とせねば収まりがつくまい。 しかし、 それは同時に、 日本という小さな島国が、西欧近代という途方もなく大きな力に直面せねばならなかった宿命それ自体を否定することであり、 それこそ切りのない自己欺瞞への道を開くだけである。反戦後論 浜崎洋介 ・ 66ページ