夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
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これまた説明不要の超有名人、『枕草子』の著者、清少納言による一首。「夜をこめて」は「まだ夜が明けないうちに」といった意味。「そら音」は「本当じゃない音」、つまり鳥の鳴き真似。「よに」は「絶対に」「決して」の意。したがって「まだ夜があけないうちに鳥の鳴き真似をしてだまそうとしても逢坂の関は絶対に開けませんよ」という意味になる。歌の意味はこれまたそこまで難しくないのだが、実はこの歌、百人一首の中でも最高レベルにハイコンテキストな歌である。 藤原行成が清少納言に会いにきて(要するにこれセックスしてたってことですよね)話をしていたのだが「物忌みだから」と理由をつけて帰ってしまった。翌日、行成は「ずっと語り合いたかったけど、鳥の声に急かされてしまいました」と文を送る。鳥が鳴くのは朝だから「時間を気にしてしまった」という行成の言い訳だ。これに対し清少納言は「鳥の声というけれど、函谷関の鳥の声でしょう」と返す。函谷関というのは中国の故事で、孟嘗君が敵国につかまって逃げるとき、函谷関が朝になるまで開かないので、部下に鳥の鳴き真似をさせ、騙して関を開けさせたことを指す。要するに「うそつき」と行成を清少納言はなじる。 これに対し行成は「函谷関ではなく逢坂の関です」と返す。逢坂の関は実在する関所のことでもあるのだが(蝉丸による「これや此の行くも帰るも別かれては知るも知らぬも逢坂の関」参照)、ここでは「逢」坂、つまり「男女の仲」とかけている。昨晩逢ったじゃないですか、セックスしたじゃないですかと言い返す。で、これに対して送ったのがこの歌。つまり「鳥の鳴き真似しても逢坂の関はあきませんよ、あなたには決して逢いませんよ」と清少納言は行成をピシャリ拒絶しているわけだ。 って、教養すご! 単に「許しませんよ」と言えばいいだけのところを、いちいち中国の故事持ってきて、当意即妙に切り返すこの機知の鋭さ。この歌は確かに素晴らしいが、ここからわかるのは詠み手清少納言の「私はモテる」という絶対的な自信と、中国の故事ならなんぼでも知ってるぜというズバ抜けた知識、そして瞬時にそれが出てくるほどの「あたしは賢い」だったりする。
そりゃ「漢学の知識は私だってしってるけれど、ひけらかすもんじゃない」「賢いアピールとかうざ」がポリシーの紫式部が嫌うのもわかる。でも、同時に、男の人相手でも一歩もひかない、どころか他を圧倒もすれば言いまかしもする清少納言の魅力をあますところなく伝える一首だ。240314moriteppei.icon