嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな
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武士だったが出家、後に諸国を放浪した自由な歌人・西行法師が「月前の恋」というお題を与えられて詠んだ一首だとされている。 嘆けとての「とて」は「と言って」。月やはの「やは」は反語を表す助詞。思はするの「する」は使役の助動詞だから「月が嘆けと言って物思いをさせているのだろうか。そうではない。そんなふうに月にかこつける私の顔に涙が流れているのだな」といった意味だ。
まず視点の移動が素晴らしい。遠く夜空に浮かぶ「月」という「遠」と、今ここにある「かこち顔なるわが涙」という「近」。ジャーン!と夜空に視点を飛ばした直後にバーン!と今度は人の顔のどアップという「カメラワーク」はまるでドラマや映画のようで、和歌という文学による非常に優れたビジュアル表現になっている。加えて「月」という「客観」と、「ものを思」う私という「主観」。動かぬ月という「静」と顔を流れていく涙の「動」。この遠/近・客観/主観・静/動という二項対立を、つまり世界のすべてを、「月前の恋」という特定のお題に従って、見事三十一文字に収めきっている。
恋を題材にして詠めとのリクエストに応じて詠んだ歌だから、確かに恋の歌なのだが、この歌のテーマは実はそれだけではない。もう一つのテーマは「和歌そのもの」。この歌はこう言っている。「月が私たちにXさせる、そう思わせるというが、逆に私たちが月をそのようなものとして捉えてるのだ」。この「月」の部分は花鳥風月いずれでも当てはまるのだから、要するにこの歌は「和歌ってそういうとこあるよね」と言ってる。いわば和歌をテーマにした和歌というメタな和歌だったりもする(百人一首の中に月を詠んだ歌は12首もあるという。百人一首:月参照)。 さらにここにはエピステモロジー、認識のレベルの変化自体のおもしろさが歌い込まれている。というのも、西行法師の詠む情景を客観的に見たら「おっさんが月見て泣いてる」だけっちゃだけなのだ。まずこれが第一段階。次に「月が嘆け嘆けと言ってくる」からおっさんが泣いてるという主観的な認識が来る。これが第二段階。最後に「そうやって月にかこつけてまで泣いてるんだ」と気づく第三段階。つまりここには、ただ泣いてるおっさん、月に泣かされてるおっさん、月に泣かされてることにして泣いてると気付きながら泣いてるおっさんという3つのステージの「泣いてるおっさん」がいる。 おっさんがただ泣いてるのにもいろいろめんどくさいことがあると気づくと、非常に理屈っぽくて、めんどくさくて、「いや、もうただ泣いてりゃいいじゃねえか」と若干イライラもしてくるのだが、おっさんが泣いてるだけの絵にならない絵がきちんと絵になってしまうのはまさにこの「めんどくさい認識」のおかげだったりする。「めんどくさい認識」がないとおっさんは泣けない。おっさんは泣きたくても泣きにくい。恋の歌の体裁をとって、実は歌ってることはそんなことだったりする。おっさんめんどくせえええええ!!!
あまりにも「めんどくさい」となると今度はそのさかしらな認識が鼻についてもくるのだが、ラストが「わが涙かな」でシンプルにストレートに落としてるからこちらもはらはら、さめざめしてしまうのだが、それもまた技巧だったりする。技巧を凝らさないと泣けない。そんな「自由な」放浪歌人の器用な不器用が味わえる一首。