今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
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しかしまあ百人一首には本当にいろんな人がいる。誰だかわからない謎の人物から、清少納言や紫式部クラスの超有名人、栄華を極めた時の人から、ただただ不遇な境遇に置かれ泣きぬれて人生を過ごした人まで、そのカバー範囲は広い。この歌の詠み手、左京大夫道雅はその中で言えば「泣きぬれ」系の人なのだが、この人につけられたあだ名がすごい。いわく「悪三位」。要するにフダ付きの不良、ごくつぶし、悪人、カス、いるだけで無益有害と言われている。そこまで言われるとはこの人、一体何をしたというのか。 伝わるところによると、道雅、まず生涯不遇である。祖父は藤原道隆、父は藤原伊周(ふじわらのこれちか)で、それだけ聞くとなんや藤原、摂関家? エリートなんちゃうんかと錯覚するが、道雅がまだ若い頃に道長に押された父が失脚、左遷。この時点で道雅もほぼほぼ人生詰んでるのだが、なんとその後、道雅はあろうことか、三条院の娘である当子(とうし)内親王とデキてしまう。 政治の世界から締め出された、つまり公的世界での成功を奪われた人間が希望を託すのが恋愛なのだが、その恋愛からも締め出され、そりゃ荒れももするだろうに、荒れたら元から素行が悪かった、根っからの悪人だとなるのが世間ってやつで、道雅はまさにそんなテンプレみたいな「追い詰められ」をして、次々と悪評を立てていく。そんな道雅の一首である。
「今はただ」は「今となっては」の意。言うよしの「よし」は「手段」「方法」、「もがな」は願望を表す助詞なので、「今となっては、あなたを諦めてしまおう、ただそれだけを、あなたに会って直接言うことができたなら」といった意味になる。いつもながら言葉の意味だけなら翻訳してしまえばそれで終わりで、しかもその翻訳もそこまで難しくなかったりする。問題はこれが「わかる」かどうかである。
言いたいことはシンプルだ。「会いたい」「もう一度だけ会いたい」。本当にそれだけ。しかし、「もがな」という願望を吐露するということは現実にはそれは不可能ということで、不可能なのに会いたいのは、「思ひ絶えなむ」どころか、それほど相手が好き、つまりちっとも思いなど絶えていないということだ。
好きだ諦めてなんかいないと言いたいけれど、それは言えない恋だから、諦めてしまおうと言うしかない。けれどもそれすら言えない。ここには二重の不可能、否定がある。二重どころか、道雅の人生、「ならぬ」「ならぬ」の否定ばかりである。否定されつづける人間は「思ひ絶えなむ」、つまり「自らの否定」を自ら告げることすら否定されてしまう。もちろんこれは恋愛の歌なのだが、否定さえ否定され、「ならぬ」と言うことすら「ならぬ」人間の境遇から絞り出された「その心理」の歌でもあるのだ。
そんな道雅にはそれでもできることがたった一つ残されている。和歌を詠むことだ。どれだけ「ならぬ」で、「ならぬ」と「言ふ」ことすら「ならぬ」道雅でも、そんな状況心境を和歌に詠むことはできる。そしてその和歌なら「伝わる」のである。伝えることが「ならぬ」という絶望の歌だが、そんな歌を詠むのはそれでも「伝わる」和歌という表現、メディアの一縷の可能性に賭けているから。
その後出家したという当子に道雅のこの歌は「伝わった」だろうか。240315moriteppei.icon