玉の緒よたえなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
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後白河院の娘である式子内親王のこの歌も、平兼盛、壬生忠見と同じく忍ぶ恋を詠んだ歌だ。少なくとも百人一首、「忍ぶ恋」に百首中三首。3%も割いていることになる。どんだけ忍んでんだって話だが、同じテーマを詠んでいるのに、式子内親王のその歌の趣は平兼盛、壬生忠見とはかなり異なる。 玉の緒とは体と魂を結ぶ緒のこと。助詞の「も」と「ぞ」が重なると「〜すると困る」という意味になるそうなので、したがって「この命、絶えるなら絶えてしまえ。ながらえてしまえば恋を忍ぶ力が弱くなってしまうから」といった意味になる。
一方に「忍ぶ」、つまり恋心を隠そうとする力がある。これが生きながらえれば、つまり、それだけ時間が経てば経つほど、どんどん「耐えられなくなってくる」「隠すことができなくなってしまう」と言っている。「だから」命がなくなってしまえば、このまま恋心を隠したままでいられる。そういうことを歌っているのだが、これは「忍んでいたはずなのにもうみんなにバレてしまっているのだなあ」と詠んだ平兼盛や壬生忠見とはまったく逆である。
ここには「バレちゃってたのかあ」という、恋心を抱いたときのウキウキ、「隠したい」と「知られてほしい」のせめぎあいは微塵もみられない。逆である。「隠したい」と「知られてほしくない」しかない。そしてその「隠したい」=「知られてほしくない」が「だったら死んだほうがいい」くらいに強いのだという。このことからわかるのは「知られたら死んでしまうくらい辛い」ということである。
「知られたら死んでしまうくらい辛い」は言い換えれば「今はそれくらい強い力で隠している」ということで、だから「辛い」なのだが、それだけ辛いと死んでしまいそうになってしまう。死んでしまいそうになるくらいなら「いっそのこと......」だ。打ち明けてしまおう、そのほうが楽になるという心理が働く。つまり「隠したい」という力が弱まる。が、弱まったらバレてしまい、バレてしまうと死ぬほど辛い。だからいっそのこと「死んでしまえばいい」となり......打ち明けても辛い。打ち明けなくても辛い。アンビバレントだ。なんせ和歌の冒頭、最初から「死にたいなー」である。神聖かまってちゃんかよと。 ではなぜ「死んでも隠すしかない」なのか。昔の人は奥ゆかしいから、それくらい打ち明けるのに勇気がいるとか、恥ずかしいということなのかもしれないが、普通に考えればそれが「知られては困る恋だから」だろう。では、なぜ知られてはならないのか。ところが、ここには「隠したい」=「知られたくない」、それも死ぬほどそうだという強い意思だけがあり、「なぜ」という理由が詠まれていない。理由が詠まれてないから、さまざまなシチュエーションに当てはまり、広い一般性を持つ(多くの人に共感される)のだが、そう見えるようにしか詠むことができないのは、他ならぬ個的な事情があったからだ。
知られては困る恋、つまり「人ならぬ恋」だ。不倫か。身分違いの恋か。はたまた近親相姦的欲望という可能性だって考えられるし、一説によると式子内親王、藤原定家とも恋仲にあったと言われている。この歌にはその理由が述べられていないが、この歌が詠まれてしまったことで「理由を述べることができない恋なのだ」ということまでは推論されてしまうし、少なくとも「恋している」ということまでは推論させてしまう。「理由を語らない形で理由を暗示している」とも言える。 しかしそれこそがトリックなのかもしれない。というのも完全に「隠し切った恋」と「別段恋をしていない」状態は外からは区別できないのだから。『仮面の告白』という小説を書いてしまえば、そこに仮面が告白する=仮面の裏の誰にも知られてない自我が推定されてしまうのと同じように、「忍ぶ恋」という和歌を詠んでしまえば、そこに「隠された恋」という虚かもしれぬ実が立ち上がる。そもそも自由に恋ができない立場だったからこそ、「忍ぶ恋」という「仮面」をつけることで、実際には恋をせぬまま、それでも恋する主体を、式子内親王は立ち上げたのかもしれない。240310moriteppei.icon