三島由紀夫
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しかし、 だとすれば、 ここに一つの大きな疑問が浮かび上がって来はしないでしょうか。 先ほど、 私は三島文学の中心的なテーマは〈現実には表象不可能なものとしての美〉 だと言いました。 が、 それなら、その不可能性を描いている三島由紀夫自身の 「小説」 は美的なものなのでしょうか、 それとも日常的なものなのでしょうか。 言い方を換えれば、 〈美の不可能性〉 を描いた三島由紀夫の「小説」 それ自体は、現実に敗れていくもの(美)なのでしょうか、 それとも、 諦念とともに現実を受け入れたもの (日常性) なのでしょうか。反戦後論 浜崎洋介• 37ページ とすれば、 三島由紀夫が戦後になって向き合わねばならなかった課題は次の一点に集約されていたと言うべきなのかもしれません。 すなわち、自分が小説 (美)を書き続ける現実 (日常)をどのようにして肯定するのか、言い換えれば、「美」と「日常性」との均衡点をどこに見つけ出すことができるのかという課題です。反戦後論 浜崎洋介• 38ページ ただし、 断っておかなければならないのは、 三島が 「天皇」を信じていたから、 それに身を捧げたのではないということです。私が言いたいのは、むしろその逆です。 「天皇」に身を捧げるという現実的行為によって、 あたかも、それが存在しているかのように見せかけることを、シャイネン (ふりをすること)によって吊り支えること。 つまり、三島由紀夫の自決とは、その「現実」における死をもってして、自らの「虚構」を存在させるための大掛かりなパフォーマンスだったのだということです。反戦後論 浜崎洋介 43ページ ただし、 断っておかなければならないのは、 三島が 「天皇」を信じていたから、 それに身を捧げたのではないということです。私が言いたいのは、むしろその逆です。 「天皇」に身を捧げるという現実的行為によって、あたかも、それが存在しているかのように見せかけること―三島好みの言葉を使えば、 「天皇」 のザイン (存在)を、シャイネン(ふりをすること)によって吊り支えること。 つまり、 三島由紀夫の自決とは、その「現実」における死をもってして、自らの「虚構」を存在させるための大掛かりなパフォーマンスだったのだということです。反戦後論 浜崎洋介 43ページ