ヴァインランド
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プレーリーの齢の数だけ時をさかのぼった、今は昔の物語。お腹の子をめぐって、二手に分かれた論争が始まった。両陣営が無料人生相談をしにやってくる。産んだら最後、芸術家としても革命家としてもキャリアは終わりよ、堕ろすっきゃないでしょ、と忠言してくるものもいたけれど、当時中絶手術を受けるには国境の南に出ないとまず無理だった。国内で済ますには巨万の金が必要で、しかも委員会とやらに出頭して婦人科医や分析医とやりあわなくてはならなかった。産みなさい、と言ってくる仲間もいた。自分の子を政治的に正しく育てるグルーヴィなチャンスだと。だがこの政治的正しさというのが種々様々で、おねんねの時間にトロツキーを読んで聞かせることから、調合乳の中にLSDを混ぜることまで、ヴァリエーションが激しすぎた。ヴァインランド新潮社pp.63-4 えっと、まずですね。すごく、いいです、やっぱ。妻に逃げられた元ヒッピー&バンドマンのシングルファザーが、生活保護を受給するために、毎年一回定期的に精神倒錯者のフリをするため、チェンソー持って女装し、窓ガラスを割る、ところをテレビ局が生放送してるところで爆笑。「そうなんだよ、ピンチョンなんてこんなのを笑って読んでりゃいいだけじゃーん」「最高最高」って言ってたんだが、途中でだんだん読むスピードが遅くなり、一時期「もう読むのやめようかな」とまで考えたのは、自分の体調の問題もあったけど、やっぱりこの作品自体の問題でもあり、要するに、その、つまり......途中からつまんなくなる!飽きる!ギャグがサブいんだよ、スベってる!
本作出版されたのが
1990年。元ヒッピーはじめ、その周辺のさまざまな人物を連鎖式で描いていくことで、つまりたとえばAの会話に出てきたBを、Bの説明に出てきたCを.....といった感じでどんどん視点も話もワープしながら、アメリカという全体を描こうという意図はわかるし、要するにフランク・ザッパがYou are What You isでやっていたような一大絵巻的な、ああいうのがやりたいってのはよくわかる、よくわかるんだが、あまりにもその視点移動を高速でやってしまうと、結局説明を理解したころにはもう次に視点が移動してるので、物語に没入できず、物語に没入できなければ結局ピンチョンなんて、壮大なガラクタの寄せ集めにすぎなくなってしまうんですよね。
しかも、途中、北斗神拳みたいな殺人拳法の使い手が出てきたり、霊界との交信があったり、もう無茶苦茶で、その無茶苦茶も笑えりゃなんでもあり、別にかまわないんだが、悪ノリも延々されると覚めるし、ほんと単純にギャグとしてすべってるんだよね。
でも、また読めるようになってきたのは、結局、元のヒッピーミュージシャン=主人公ゾイド、その娘プレーリー、元妻フレネシの描写に戻ってきてからなので、途中のぶっとばしたくすぐり、まるで全然いらなかったじゃないか、ってなる。
これだけふざけておいて何だけど、とても根が真面目な作家なんだろうなというのが透けてみえるのもあって、悪ノリはほどほどに、混乱しない程度には一つの物語を追ったほうがいいんじゃないの?とも思うのだけど、その寒い過剰さもピンチョン印だからやめられないのかもなあ。
読破するにはコツがあって「あっそ」と流すことです。理解しても深まらないから、これ。それよりもその寄り道を楽しめるかどうか。ゴールはあって、そこに向かうんだけど、いちいちその道ばたに咲いてる雑草を見ながら「いい形、してるよね」とめでたり、「これと似た雑草があっちにも」なんてやってるだけだから、一緒になって楽しめる部分は楽しみ、だるくなったら「先急ぐぞ」とすっ飛ばす。それでいいんじゃないかと思います。
しかし、今、島田雅彦『パンとサーカス』読んでるんだが、ちょっと似たような世界観かもなと思うんですよね。でも、島田のほうが圧倒的にテンションが高く情報量も緻密、悪ノリもノリノリなので、ピンチョンがとても生真面目な作家に見えてしまう。
冒頭があまりにもおもしろくて「傑作じゃん!」。でも、途中でスベって「なんだこりゃ」「つまんね」。でも、最後のほうで戻ってきて「やっぱおもしれーな」。個人的には憎めない作家です。
あー、あと翻訳にも「難あり」と思いました。訳文が誤訳だとか読みにくいとかではなく、ノリをどう訳すか、なんですよ。
訳者の佐藤良明のセンスなんだと思うけど、「やっこさん」って言い合ったりする、ほら、わかるでしょ!ああ言うセンスの翻訳なわけ。やっこさんって......