どうすればよかったか?
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とにかく第一の感想が「薬すごい」。いくら監督が話しかけてもほとんど応答ままならず、意味不明な言葉を発するだけだった姉が、20年以上その統合失調症の症状に苦しんだのに、入院し投薬治療してたった3ヶ月で劇的に症状が改善してる。もうこの時点で「どうすればよかったか?」も何も「早く薬を試せばよかったじゃないか!」というのが正直な感想だった。もちろん「そう簡単に他人は言うが」という話なのだがその「当人たちならではのやるせなさ」「こんがらがり」が、正直に言ってしまえば、実はこの映像だけでは伝わりづらい。映像も粗いし、母親や父親がいろいろ重要そうなことを言っているのだが、ほとんど何を言ってるのか聞き取れないのだ。すべて字幕ほしい。 斎藤環いわく当時はまともな治療法が確立されてなかったので、今の進歩した薬理事情を前提にして「病院早よ」と言うわけにも当時はいかなかったらしい。 そういう事情もあったのだろうが、それも付加情報がないと、映画だけではわからないわけで、要するに見る人に「伝わる」ように作ってない。「伝える」というよりは率直に言って(溜まったから)「吐き出す」のほうが近い。でも、その「吐き出す」だからこそ「伝わる」ものがある、伝わってしまうという感じだろうか。
監督はただカメラを回してるわけではまったくない。被写体にどんどんどんどん介入していく。だって被写体が家族だから。自分も巻き込まれてる事象だから。冷静に中立的な立場からのドキュメンタリーなどではまったくない。「どうすればよかったか?」も何も「早く病院連れてけ」「なぜ連れていかないのか」というのが監督の考え「だった」のは明らかだ(そんなシーンも何度か入ってる)。それなのにそうできなかったことを、誰かを責めずに表現として吐き出すためにこんなタイトルの映画にするしかなかったのではないか。
タイトルは本当だったらズルいじゃないですか。「どうすればよかったのか?」て。オープンクエスチョンにしてあとは視聴者に「考えさせる」みたいなの安易だし。でも思ったよりも監督が「どうしたらよかったのか?」はっきり態度持っていて。でもそれをそのまま言ったら「父親が悪い」「母親が悪かった」になってしまう。むしろ誰かを責めていると取られることを避けるためにこのタイトルを使ってるという印象を持った。
あと統合失調症を発症してしまってからは「どうしたらよかったのか?」という疑問が出てくるのはまだわかるのだが、それ以前「発症しないようにする」点については「過度なプレッシャーを与えなければよかったのでは」と言うほかない気がしてならない。医大に入るために四浪もさせている。本人の意思かもしれないが、当時女性で四浪で医大て。姉に相当なプレッシャーをかけているのは間違いなく、それが発症の大きな原因の一つであったことはどうしたって否めない。それをしなければよかったじゃないか。
このような感想を言うと「他人」だからこそ何でも言えるのだと言われてしまうだろう。だから他人は「何も言えない」。他人だから「何でも言える」、つまり「他人は何も言う資格がない」、つまり「「他人だから何も言えない」になる。そこに「どうすればよかったのか?」というタイトルがちょうど心地よくハマってしまう。黙ってこれを受けてずっと考えつづけなければならない的な。でも、自分はだからこそ「そっちのほうが卑怯」だと思ってしまうんだよな。責められるかもしれないし、間違いかもしれないが、率直な印象を記しておく。
劇中、ひとつ気になったのは「聞く」という姿勢について。姉の言うことは意味不明で、両親ともに彼女が話しててもそれを無視して話しているのだが、弟である監督は時折、姉にカメラを向けて根気よく話しかけ、彼女の言葉を待つ。すると、ほんのささいなレベルだが、姉はそれに対してリアクションをする。あの場面は感動的ですらあったし、自分自身、認識を改めるところがあった(もう意思疎通は無理なのでは…とちょっと思っていた)。まだ言いたいことはあるが、言い過ぎてもアレなので気になる人は劇場で。12月7日公開。https://x.com/maesan/status/1857002799550067137 「正常」な主体から見たらどんなに「異常」に見え、理解不能であっても、それでも不可能とは決めつけず対話を試みつづけること。それを「是」とする空気があるし、こうした物言いが倫理的であるかのような雰囲気があるけど、果たして本当なんだろうか。対話に対する過剰なロマンではないか。もちろん治療として対話なりオープンダイアローグが「効く」ならばいい。けれども、そうでないならそこに過剰な意味を読み込むことで、投薬治療への躊躇を生むことになってしまわないか。自分たちは「異常」とされる相手とすらコミュニケートを諦めないリベラルな人間だという、そのアピールというか自己満足にもなりかねないとも思う。
普通にこの映画を観るならば、みんな弟である監督に自分を重ね合わせて観るはずです。家族にカメラを向け、尋問する監督の側に観客は立つ。/介入すること、カメラを向ける暴力性なんてものにちょっぴり心を痛めつつも、発病した姉を「どうすればよかったか?」なんて考えながら、映画を楽しむに違いありません。/わしは違うぞ。わしは映画が始まると同時に、姉と自分を重ね合わせました。統合失調症の姉側に立った。どうしたらよかったか? ではありません。/ 「どうされるのか?」/ です。「撮る側」に自分を重ね合わせていれば気にならないことが、「撮られる側」の身になって観たとたん不快になるし、テンポの悪さにも憤慨もする。ホームビデオをつなぎ合わせただけの自称ドキュメンタリー映画に不満をたらたらになります。/ ヘタなのです。https://hikilife.com/essay/dosureba/ それな......。
この映画を「いいもの」としてみようとしているような人って、絶対「べき」から映画見てるし、映画だけじゃない。他のジャンルでもなんでも、ただ作品を消費してるだけだよなと。
だからたとえばマイノリティだったり当事者だったりが発表したものに「おもんない」「ヘタクソ」と言えないし言わないわけでしょ。言いにくいのはわかるけど、言いましょうよ!といつも思う。
リンク先、この映画に対する自分の感想は、今見ると相当偏見も強いもの(と今の自分は感じる)なのだが、それはまだ医療モデルにしばられているからだと思う。あくまで統合失調症は「治す」対象。「そうなる前にどうすればいいか」にも考えは一応及んではいるものの、そもそもが「治療対象とは考えない」といった発想が弱い。 ちなみに「どうすればよかったか?」というタイトルは最悪で、統合失調になった姉を「どうすればよかった?」に問題をフレーミングしちゃってる。「発症するような過度なストレス環境に姉を置くなよ」という問い(悪いのは彼女じゃなくて環境では?)を塞いでる。
今見ると、斎藤環も結構相当酷いこと言ってるな。
自分はこのCosenseをブログだとかXのポストだとか。要するに「公的」なものだと思ってないし、「完成品」ではなく「全世界に公開していいメモ帳」だったり、書いて自分の思考を対象化することによって、再度思考を深める=自分にツッコミ入れ続けるための記録だと思ってる。 これはだから差別的な表現をしても責任免除願います、ということではない。それは最悪な言い訳じゃんね。責任は持つけれど、でも、失敗したり間違えないと学習ってできないわけで。(差別については特にそう)それなのに最近は最初にSNSに書くでしょ。だから少しの失敗=差別も許されないしオーバーキルされてしまう。そしてみんな「自分は差別なんかしてない」にいってしまう。
あと、なんで以前あのように書いたのかというと、「対話」をポジティブなものとだけとらえることに結構恐怖を感じているというか、警戒心を持っているからだと思う。我々はリベラルである自分というアリバイのために、平等で開かれた、どこまでも「耳をすませる」対話をしていますよ、努力していますよって態度は、実は結構マジョリティにとって心地いいし都合がいいんだよね。 あと、この映画、全然撮られた家族に対しパーミッションをとってないですよね? みんな八代亜紀のヌード封入CDには激怒するのに、統合失調症の姉にパーミッションとってない映画は絶賛するのかと。 引用したブログの勝山実、本当に文章上手い、プロだと思う。もちろん文章そのものも上手いのだけど、一番「さすが」と思ったのは「公開時期」だろう。みんな映画を見て、その感想をすぐSNSに投下したがるしてしまう。でも、そうすると他の人の意見を見ながら、空気を見ながらの言葉になってしまっているのだよ実は。さらにこの映画はテーマがテーマなだけに燃えやすいから、なかなか水をさせない。だけど、時間をおいてからなら、自分の感じたこと考えたことを発表しやすい。 でも、ちょっと考えてみ。その時は話題だからすぐに見にいって「今後も考えつづけていきたい」みたいなこと言うけど、次の瞬間には別の話題作の話で持ちきりって人よりも、これだけ時間経ってから記事にする勝山のほうがいかに誠実か。向き合っているか、なんだよな。