「コミュ障」にないのは分析力
「コミュ障」だとの自任はあっても、自分がなぜどのように「コミュ障」なのかという自覚は実はあまりない人が多い。
なんとなく「コミュ障」だと思ってるというか、「コミュ障」とあらかじめ自任ことで、他者からそう指摘された時の精神的ダメージを防ぐために「単に言ってるだけ」レベルの人が非常に多い。
だから、コミュニティの運営者やファシリテーターが、問題のあるコミュニケーションをやんわり指摘しても、「コミュ障」を自任する人は自分のことを言われているという自覚がなく、他方で該当してない人たちが「自分たちのことかな」と思って気にしてしまうことになる。「自分のことかなと思う人は大丈夫の法則」参照。 「コミュ障」の人は分析能力が高くないことが多い。むしろ分析が歪んでいるため、自分で自分を分析するとどんどんこじらせてしまう。関係ない努力をしてしまう。
したがってまず最初に「コミュ障」が自覚すべきことは「自分の分析は当てにならない」「自分にはコミュニケーション能力の前にコミュニケーションに関する分析力がない」ということだ。
「コミュ障」は「他人の気持ちを理解するのが苦手」とよく言われる。過去の自分もある意味「他人」である。過去の自分という「他人」と、過去の他人とのやりとりを今の自分が思い出しながら分析するのは、分析が得意な人にとっても難易度が高い。ましてや「他人の気持ちを理解するのが苦手」な「コミュ障」にはハードルが高すぎる。「そんなの無理」と思っておくほうが吉だ。
かといって他人からの分析も非常に当てにならないことが多い。というのも、まず、単に相手は「コミュ障」にイライラしており、「お前はダメだ」と言っていじめてる、意地悪してるだけのことも多いからだ。
これをそのまま聞いているとどんどん人格自体をコントロールされてしまう。程度にもよるが他者からトキシック、「耐えられないほど退屈」と思われるほどの「コミュ障」なら、コミュニケーションで訂正すべきことは無数にあるし、それらの原因は相互に関連しあっていたりする。その説教をすべて聞いてるうちにメンタルもやられてしまうし、ますます混乱していく。 「コミュ障」同士で「コミュ障」ダメ出しをしている風景もしばしば見る。だがこれも問題が混乱するだけだ。
「コミュ障」は分析能力が低いということは、問題のあった個別のケースからの一般化がヘタクソということだ。ヘタクソなのに「あの時、何が問題だったのだろう」と分析をしてしまう。自己分析はひとまずやめよう。そんなことよりもむしろ個別のケース、事例は無視して、コミュニケーションの一般的な定石から押さえるほうがコスパがいい。定型のコミュニケーションにはセオリーがある。まずはそのセオリーを押さえることだ。