ASDの謝罪
https://gyazo.com/a0a16bad3c34a483fccd14a6cb5b8452
元のツイートはこれ。
ワイASDからすると「怒りや悲しみ不満への寄り添いと共感」をされても納得感なくないか?って思っちゃう / それより理由の説明やファクトチェックで納得すれば、自然と怒りもおさまると思うんだけど…… / 定型は違うんだろうな…… これに対してバニラスパイダーが事例を出して説明している。
例えば大事にしてる人形を飾ってたのを友達が落として壊したとして、
「ごめん。私が振り返ったら手が当たる位置にあったから。置き場所をもっと壁際にした方がいいと思う。私は次から置き場に近づかないようにするから」と言われたら私は相手は悪いと思ってさそうと思うし出禁にすると思う→
失敗に対する切り替えが早すぎると感じるので。
平たく言うと感情論で、そもそも謝罪が短すぎて相手のやらかしに対しての受容の心構えが完了してないのにさっさと謝罪フェーズが終わって、やらかした側が再発防止策を出して終わりにしようとしているから。
まずある程度こっちの反応気にしてくれや
謝罪による「申し訳なさ」の表現で情状酌量余地が大いにあるんだけど、サラッとした謝罪だとそれが発生しない。謝罪を飲み込む前に話が変わってるから。
一言ごめんで済まされると、形式的に謝罪しただけで全然悪いと思ってないと感じる。
この辺感情論バリバリだなぁと自分で思うが…
望ましい謝罪には、次のようなものがあります。 「ごめんなさい」 とか 「申し訳なく思っている」と直接相手に謝罪したいことを伝える。 ・自分の行動に責任を持ち、 自分のどのような行動で相手が傷ついたかを自覚していることを示す。 「あなたの気持ちを傷つけてしまってごめんなさい」 よりも 「怒鳴ってしまってごめんなさい」といったようにです。 「あなたが傷ついたことに対して謝ります」 と言うのは、傷つけたことに対する自分の責任を認めるのではなく、「あなたの観賞魚が死んでしまって可哀そうに思う」 のように) 相手が傷ついたことに対する同情を示すことです。 ・自分の行動によって相手が苦痛を味わったことを理解していると言葉で表現し、共感する。 謝罪は、 相手が経験した痛みと同じレベルの感情の強さであるべきです。 相手にとっては立ち直れないくらいダメージの大きい言葉をあなたが放ったのであれば、 砕けた口調で「悪かった」 と言うだけでは謝ったことにはなりません。 そして、 謝罪を何度か繰り返すことが必要な場合もあります。 多くの人は謝罪を繰り返すことに抵抗感をもちますが、 その抵抗は何よりもエゴであることが多いのです。 謝罪の言葉を繰り返すことで、相手の気持ちが落ち着くのであれば、そうするに越したことはないのではないでしょうか?・償いをする、相手に埋め合わせをすることを申し出る。 どうしたら気持ちが落ち着くか、 相手に聞いてみて下さい。 相手の要求があなたにとって実行可能であるならば、そうしてあげてください。 許してもらえるまでに時間がかかるかもしれないことを受け入れる。 謝ったからといって、 相手が自ずと信頼と寛容の気持ちを持ってくれるとは限りません。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ・236ページ これでいくと、人形の事例は最初の「自分のどのような行動で相手が傷ついたかを自覚」を示せていない。むしろ「悪いのはそこに人形があったから」と言っているかもしれないという解釈を排除できていないのが問題。
この例が「ASDの特性と謝罪」のように語られているが、本当にASDの特性なのか?というのが疑問の一つ。まずASDでない人でもこのような謝罪をする人はたくさんいるし、ASDの人はこうした謝罪を頻繁にしているんだろうか。そしてそれはこうした「謝罪のコツ」を聞いても容易に直すことができないものなのだろうか。もし答えがイエスなら、謝罪の仕方を変えるよう努力をさせるよりも、こちらが理解したほうが話が早いし、ニューロダイバーシティからしてそうであるべき。 もう一つの疑問。では、逆にASDの人はこのようなことをされて、このような謝罪をされた場合に「納得」するのだろうか。「納得」のほうが感情への「共感」よりも重要なのだろうか。SNSを見ていると「そんな謝罪の仕方ではダメだ」「責任転嫁だ」と他者の謝罪に対してNGを出し、糾弾している人も多く、そういう人のプロフィールを見ると発達当事者、ASDなどと書いてあることも少なくない。ASDの人に「ごめんなさい。そこに人形が置いてあったから」式の「謝罪」で納得してもらえるんだろうか。
コミュニケーションの相違について考えるのはいいけれど、定型と発達の本質の違いのように容易に表象してしまうと、お互いを異化、モンスター化してしまうのでは?との不安もある。