孤立した嫌われ者の中年になる
TwitterでもThreadsでもMastodonでも、SNSでの投稿を見ていると「極端」「粗雑」「一面的」と思うことが増えてきた。というか、ほとんどそう思うようになってきた。
それは物事についてみんなの知見や理解がどんどん進んできているのに、勉強不足の自分が追いついてないということなのかもしれないし、自分は中年のシスヘテロ男性という「特権的身分」であるがゆえに他者が置かれている立場に十分な共感が持てていない、想像力が欠如している、ということなのかもしれない。
もし、そうだったら怖い。だから、たとえ自分に理解できなくても「理解できない自分がおかしいんだな」と思って処理することが以前は多かったのだが、最近は「いや、これはどう考えてもおかしいだろ......」と思うことばかりになった。そしてそう思うようになった原因は「SNSの利用頻度が極端に下がったから」と思うようになった。
ずっと集団の中にいるとその主張が少しずつ過激になっていったり右傾化左傾化しても気づかないし、声が大きい人が激しい言葉を使えばたとえそれがおかしなことでも訂正しにくい。単に「あなたが間違ってますよ」と言われるくらいなら構わないが、「ヘイター」「ミソジニスト」「差別者」という烙印がすぐに押され、「あいつは終わった」「バグった」などと評価され、「リポストしていい安全なお墨付きアカウントリスト」から削除される。
私はあまり周囲からの評価を気にしないようにしているほうだし、普段リプライでのやりとりなどもほぼ一切意図的に避けている=コミュニティをつくらないようにしている。だけれどそれでも「輪郭の見えないコミュニティ」(それを本当は「空気と呼ぶのだが)からリムられれば、感情的にそれなりに悲しい。
「悲しい」のは受け入れるしかないが、いいねやリポストももらえなくなっていくので、結果、発言の影響力はどんどん下がる。影響力が下がるーーSNS化した社会では残酷なことに、それはインプレッションや再生数といったカウンターで厳密に数値化されるーーということは端的に言って「話を聞いてもらえなくなる」ということ。自分の話を聞いてもらえなくするために話をするのもバカらしいから、「違う」と思っても黙っていたほうがいいし、異を唱え「ない」ほうに強いインセンティブがかかっているのが、SNSという言論プラットフォーム(どこが言論やねん)だ。
昨年末から話題になっていること、それは松本人志の性加害事件だったり、永井均の「トランスヘイト論文擁護」問題だったりするのだが、加齢のためだろうか。極端な意見ばかりが高速で飛び交うタイムラインを追いかける、時間も体力も瞬発力もなくなってきたし、「別に追いかける意味なんてねーよ」と開き直れる程度にふてぶてしくもなった。
大物芸能人によるレイプ疑惑は厳しく追及されるべきだしセカンドレイプなんてもってのほか。信義則に反して査読コメントをSNS上に公開するが、リジェクトされた自分の論文だけは公開しないで「査読のコメントおかしい」などとSNSに吐き出す愚か者が学者もしくは学者の卵とは世も末だなと思う。当然、一般的な話としてトランスジェンダーへの差別など一切許せるはずがない。
だが、お笑いの社会における機能への無理解はむしろ芸能差別にもなりかねないし、芸歴何十年ものベテランやそのベテランと親しい芸人、なんならテレビの笑いをすべてまとめて「いじり」「弱い物いじめ」だと断罪し「ひとつもおもしろくない」などと言う粗雑さにはウンザリするし、「ダウンタウンと違ってウンナンは」「ダウンタウンと違ってたけしは」「ダウンタウンと違って横山やすしは」などと言ってるのを見れば、「気に入らない人間をけなせりゃ何でもアリかよ」「殴っても怒られない”強者”をリスクなしで過度にボコなぐりにするのと、弱い者いじめと結構似てるね」と思うのは当然だろう。
中身が読めてすらいない論文について「トランスヘイト」と認定し、その一連の流れ自体を「興味深い」と引用した学者を秒で「ヘイター」と認識する性急さなどについていくほうがどうかしえる。対立する相手の意見を否定するにしても、その中から重要なインサイトはサルベージできるし、そうするべきだ。人が真剣に生涯かけて研究していることを単なる「知的ゲーム」だなどと貶すとか、失礼にもほどがあるだろう。
でも、こうした疑問を少しでもSNSで提示しようものなら「あいつも終わった」「中立しぐさ」「冷笑」「議論ゲームに乗ったヘイター」のようなありがたい称号を一瞬でいただくことになる。もちろん世の中には「とてもじゃないが言論の通じる余地がない」ような人間はいるし、そうした人は少なくない。だけれど、その手のた安易なラベリングを次から次へと流通させて仲間内で、相互承認に興じているお前らは「話が通じる言論ができる相手」なのか?って話だし、それこそ「ネット上での承認と居場所のゲーム」でしかないだろう。津田大介や豊崎由美らに単に同意できないだけでなく、「ヘイター」と
この歳になると、自分が正しいと思うことでも、でもそれは「おじさんだから」「中年だから」そう思ってしまうだけで、実は認識できていないことがあるのではないかと思ってしまう。そして、だからどうしても、SNSというツールに基づいて、自分が今「正しい」側にいることを確認したくなる。「加害者側」に立ちたくないから。精一杯「理性」を働かせるんだけれど、その「理性」に限界があることも過去の経験から痛いほど学んできている中年だから、自分とは異なる属性を持つ者やその支持者を自称する人たちからお墨付きをもらいたくなる。
けれども、その結果、自分の頭で考えて納得できないことでも、安易にわかったふりをして同調してしまったりする。でも、それって戦時中にみんながそう言っていたから、反対できる空気じゃなかったからと「大日本帝国万歳」と言ってた臣民たちと一体何が違うんだろう。
コメカ(早春書店、TVOD): "ひとまずの体系だった理念ではなく、無限に繋がり合うコミュニケ…" - Mastodon
コメカ.iconひとまずの体系だった理念ではなく、無限に繋がり合うコミュニケーションそのものを、自らの「倫理」の準拠枠にすることの危うさ。そこでは、体系だった理念が持つ限界や欺瞞について考える機会を回避できる。コメカ
コメカ(早春書店、TVOD): "今後は、自分の限界をちゃんと認める(その上で倫理的に行動する…" - Mastodon
コメカ.icon今後は、自分の限界をちゃんと認める(その上で倫理的に行動する)胆力がこれまで以上に必要になると思うんだけど、これはなかなかしんどい道でもある。コメカ
SNSをはじめとした「無限に繋がり合うコミュニケーションそのもの」から一回完全に降りよう。誰からも承認なんかされなくていい。たくさんの人に読まれたり、「共感」「同意」されなくてもいい。今、わからないものは「わからない」でいい。たくさん間違えてもいいから、他人に、自分の大事な認識を預けるな。
ハンナ・アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』を発表し「アイヒマンは巨悪ではなく凡庸な人間である」と書いたことで、ユダヤ人の友人たちほぼ全員から絶交されたという。友人を失うこと、絶交されることはとても辛い。アーレントも非常に深く傷ついたそうだ。けれども、人は究極的には独りだし、独りでいるべきなのだ。それこそが民主主義なのだから。
孤独な個になれ。つながるな。嫌われたくないというエゴを捨て、正しく(この「正しく」がとても大事)嫌われものの中年であること。歴史は常に正しいことだけで動くのではない。限界は引き受けた上で、それでも誠実に自分であることを貫く。そうした人間たちの対立が世界にダイナミズムをもたらすのだから。
moriteppei.icon 20240101