哲学研究者の知的ゲーム
哲学がその問いの対象から、あるいは概念分析や思考実験といったツールの性質から、主張や論法の抽象度が高くなりがちであり、そのために形而下世界への影響や、現実的な束縛条件を低く見積もる傾向があることは否定しないが、抽象性の高い学問や実利性が低い学問を、学問のジャンルや、そのディシプリンにいる研究者全体に向かって、さらっと知的ゲームのように言ってしまうのは非常に失礼だし、そうしたメンタリティはある種の知に対するミゾロギーでしかない。 哲学のため、知のためなら何をしても許されるとは思わないし、哲学という営みが「純粋」であるかのように言うのも、21世紀にそれってあまりに古すぎると思うし、理性そのものを信奉しすぎていると思うことはあるが、同時に、既存の知の枠組みや概念の枠組みにおいて「今、それが適切だと信じられているから」というだけの理由で、その前提に疑義を表明しただけで、あるいは「傷つく当事者がいるから」という理由だけで、その主張の発表の機会さえ許されない、ということが常に必ず正しいとは思えないし、ましてやそこからすぐに「ヘイター」「ヘイト」と言ってしまうのは、人間の知的営為に対する過小評価でしかない上に、下手をすると当事者の首すらしめかねない危険性があると私は思っている。
そもそも「知的ゲームのためにXをするのは許されない」構文、別に「知的ゲームのため」ではなく、非常に有意義かつ意味のある、実利性のあることのためであってもXするのは許されないと主張するだろうから、わざわざ「知的ゲーム」と言う必要がまったくない。ただの哲学ディスにしかなってない。(すごく有用なことのためだとしても、ユダヤ人や水俣病患者、トランスジェンダーの人を利用していいことにはならないだろう)
哲学だけがえらいとはまったく思わないが、哲学だってえらいよ。
「知的ゲーム」という言葉には「役に立ってない」「机上の空論で勝手に何かをこねくりまわしている」といったニュアンスを感じるが、これは人文学への嫌悪全般とも共通している。「役に立つ」「実社会と関連を持つ」ということこそが偉い、素晴らしいと思うからこそ「知的ゲーム」と言ってる=それが否定的なニュアンスなわけで。学問は有用であるべきという国の政策姿勢を研究者やアカデミアの徒自身が内面化しているのでは。非常に問題のある態度。 ここでの「ゲーム」の含意は「そこで勝ち負けがあってもその外に何の影響ももたらさない」とか「プレイヤーだけが楽しんでいてそれ以外に意味がない」とか「特定のルールにしたがっているだけで現実には何もしてない」といったニュアンスだろう。
永井均の「トランスヘイト論文擁護」問題についてはリンク先で書いた通り。査読論文であり、ジェンダー論を研究している哲学者によるジェンダーに関する論文なのだから、哲学的には基準に達していても、ジェンダー論の見地から査読リジェクトがあるのは当然のことだし、それをSNSでコメントさらす論文執筆者のが愚かな行為が愚かなだけ。だが、他方で要約を読むかぎり、査読者は論文執筆者の趣旨を誤読している可能性は割とあるし、いずれにせよそれで「ヘイター」認定するような粗雑さで学問やるのも(特に政治的な主張にコミットした学問やるのも)非常に危険だと思う。 限界事例の議論に代表される哲学理論においては、知的障害の「哲学的搾取」がおこなわれていると猛烈に批判しながら、哲学者のリシア・カールソンはとても重要な問いを投げかける。「種差別に立ち向かって人間以外の動物の道徳的地位を明らかにするために、知的障害者の事例を用いるのが必要なことなのか?......わたしたちは果たして、動物の利害関係が「重度知的障害者」のそれと衝突すると考えねばならないのか?」 サロモンやカールソンと同様、わたしはそんな必要などないと信じる。動物を知的障害者と比較する議論は、より重要な点を見落としているからだーー人間的かつ定型発達的な特定の「道徳的に重要な諸能力」へ焦点を絞ることで、二つの個体群がどちらとも貶められてしまうということだ。荷を引く獣たち スナウラ・テイラーpp.128,129