平田銕胤
ひらた・かねたね
寛政11年(1799)12月6日〜1880年(明治13)10月25日
碧川篤真。
秋田藩士。
伊予国新谷藩士碧川衛門八の子(図録『明治維新と平田国学』「平田家系図」p.10)。 母親は「田甫の母君」として日記などに記載される(嘉永3年1月10日没)(「平田家系図」p.10)。
内蔵介、大角。
略年譜
寛政11年(1799)12月6日、誕生(「平田家系図」p.10)。
文政7年(1824)1月15日、平田篤胤の養子となる。 文政9年(1826)5月7〜20日、上総・下総旅行(日記)。
文政9年(1826)7月18日〜8月1日、上州・武州旅行(日記)。
文政10年(1827)9月16日〜、上総・下総旅行(日記)。
文政11年(1828)3月29日〜5月21日、越後旅行(日記)。
文政11年(1828)7月29日〜10月5日、下総旅行(日記)。
文政12年(1829)2月1日〜3月17日、下総・常陸旅行(日記)。
文政12年(1829)6月4日〜13日、下総旅行(日記)。
文政13年(1830)11月11日〜12月15日、上総旅行(日記)。
天保2年(1831)2月6日〜24日、下総旅行(日記)。
天保2年(1831)4月29日〜6月11日、三河旅行(日記)。
天保2年(1831)6月13日、初めて「玉襷』講釈(日記)。
天保2年(1831)10月2日〜12月25日、下総旅行(日記)。
天保3年(1832)10月18日、銕胤に改名(日記)。
天保8年(1837)11月28日〜12月16日、下総旅行(日記)。
天保12年(1841)1月11日、篤胤夫妻、秋田に向けて出立、4月22日到着(日記)。
天保13年(1842)7月5日、白川家から学師職代勤を命じられる(日記)。
天保14年(1843)6月4日、秋田へ出立、19日到着(日記)。
安政2年(1855)頃から、秋田藩「江戸藩邸当局者は平田銕胤とその人脈を利用しはじめたと思われる。」(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.206)。
文久2年(1862)11月、物頭格本学頭取にとりたてられる(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.210)。
文久2年(1862)11月27日、上京を命じられる(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.210)。
慶応4年(1868)2月3日、政府、官制を改め、三職八局の制を定める。
慶応4年(1868)2月20日、神祇事務局判事に任命される(吉田麻子「平田篤胤略年譜」『別冊太陽』p.139)/阪本によれば、このとき任じられたのは神祇事務局''書記''(判事ではなく)(阪本是丸『『明治維新と国学者』1993、p.186)。
慶応4年(1868)2月22日、参与職神祇事務局判事に任命される(阪本是丸『明治維新と国学者』1993、p.186。吉田麻子「平田篤胤略年譜」『別冊太陽』p.139)。
慶応4年(1868)2月22日、京都に学校掛がおかれる(『新版日本史年表』)。
慶応4年(1868)3月4日、内国事務局判事に任命される(吉田麻子「平田篤胤略年譜」『別冊太陽』p.139)。
慶応4年(1868)閏4月21日、八局廃止。
慶応4年(1868)5月19日、平田銕胤、矢野玄道らに学校掛の書付が出される(阪本『明治維新と国学者』、p.200)。 慶応4年(1868)9月、皇学所御用掛(『日本近現代人物履歴事典』)。
慶応4年(1868)9月8日、改元。
明治元年(1868)12月14日、京都に皇学所開講(『新版日本史年表』)。
明治2年(1869)1月20日、侍講に任命される(吉田麻子「平田篤胤略年譜」『別冊太陽』p.140)。
明治2年(1869)4月18日、東京で一等教授をおおせつかる(『研究報告』128, p.391)。
明治2年(1869)7月8日、大学校|大学設立(昌平学校中心、開成・医学校は分校)(『新版日本史年表』)。
明治2年(1869)7月28日、大学大博士に任命される(『研究報告』128, p.393)。
明治3年(1870)7月、依願免官、位記返上(『日本近現代人物履歴辞典』)。
明治12年(1879)2月、大教正に任じられる(『日本近現代人物履歴辞典』)。
明治13年(1880)10月25日、死去(「平田家系図」p.10)。