平田延胤
ひらた・のぶたね
文政11年(1828)9月13日〜明治5年(1872)1月24日(享年45)
延太郎
「秋田藩士で江戸定府の身分」(『明治維新と平田国学』p.60)
秋田藩士(『神道人名辞典』、「平田家系図」『明治維新と平田国学』p.10)
天保3年、5歳のときに屋代弘賢に入門した(天保3年12月18日)。 気吹舎で入手した政治諸情報を整理・編集して「形勢聞見録」にまとめた(『明治維新と平田国学』p.60)。
略年譜
文政11年(1828)9月13日、誕生。
天保3年(1832)12月18日、屋代弘賢に入門(『研究報告』128、p.62→吉田麻子「平田篤胤略年譜」『別冊太陽 知のネットワークの先覚者 平田篤胤』)…「父君{=篤胤}、延太郎を屋代先生へ入門二つれて御出」(日記『研究報告』128、p.62) 嘉永・安政期(1848~)、ペリー来航後、「在藩の門人は事態への対応と自藩の軍事改革を模索しはじめる。他方気吹舎塾は、在府の諸藩門人を筆頭に全国各地より政治情報が続々と寄せられてくる。古道学を学ぶべき塾は、必然的に藩の枠を越えた全国的情報センターの役割をもちはじめ、篤胤嫡孫の延胤は、政治的活動家として秘密日記を記録しはじめる。」(『明治維新と平田国学』p.61)
安政5年(1858)4月、献上方に登用される(『明治維新人名辞典』→『国書人名辞典』)。
安政6年(1859)12月から、秘密日記の記録がある(~万延元年4月)(『明治維新と平田国学』p.61)
文久2年5月18日、秋田藩主佐竹義堯、「平田延胤に対し上京して隠密探索をおこなうよう命じる」(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.209) 文久2年(1862)5月〜6月24日、京都探索(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.209。「平田国学関係年譜」『明治維新と平田国学』p.72)。
文久3年(1863)1月、上京(「平田国学関係年譜」)。
文久3年(1863)3月、銕胤とともに京を出発、中山道経由で帰府(「平田国学関係年譜」)。
文久3年(1863)6月中旬、「ここにいたって、平田父子のうち、藩内政治に深く関わる役割を担った平田延胤は、六月中旬、帰国していた藩主佐竹義堯は朝旨を重んじて討幕の挙に出でよとの激越なる口上書を藩当局に提出」した(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.212)。
元治元年(1864)1月23日、〈長州藩士木梨彦右衛門、秋田藩主に主君直書を渡す斡旋を延胤に依頼(宮地正人「幕末平田国学と政治情報」=『幕末維新期の社会的政治史研究』→吉田麻子「平田篤胤略年譜」)〉。 元治元年(1864)9月28日、「…滞府するなかで幕威が再確立するのを感じ取った義堯は」延胤をはじめとする「藩内尊皇派の一斉処罰」を指示する(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』p.216)。
元治元年(1864)10月2日、〈秋田藩内、尊皇派処罰。延胤、献上方罷免・遠慮処分となり、…(宮地正人「幕末平田国学と政治情報」=『幕末維新期の社会的政治史研究』→吉田麻子「平田篤胤略年譜」)〉。
慶応期の延胤は「理論的指導者として、1865年10月条約勅許後の国学者のとるべき姿勢や、王政復古後の国家のあり方につき理論活動を展開する。」(『明治維新と平田国学』p.63)
慶応3年(1867)12月、「本学教授」のため、藩主に従って秋田へ赴く(日記『研究報告』128、p.370、「平田国学関係年譜」)。
慶応4年(1868)2月19日、秋田を出て「北国通」(北国街道)経由で京都へ向かう(日記『研究報告』128、p.373)。
慶応4年(1868)3月、上京(「平田国学関係年譜」)。
慶応4年(1868)4月25日、徴士・神祇事務局権判事に任じられる(日記『研究報告』128, p.374)
明治2年(1869)7月14日、神祇少祐をおおせつけられる〈7月8日、官制改革で神祇少祐となる(『神道人名辞典』の阪本健一)〉。
明治2年(1869)9月、漢学派の立場から十三の藩が「大学校略規則」に対する反対論を唱えたのに対して、「十三藩妄議」に逐条的批判を記す(『明治維新と平田国学』p.69)。
明治2年(1869)10月13日、宣教使を小野述信に渡して本官に帰る(『神道人名辞典』の阪本健一)。 明治2年(1869)11月、東京に移る(「平田国学関係年譜」)。
明治3年(1870)1月12日、神祇権少祐から神祇少祐兼宣教判官に任じられる(日記『研究報告』122、p.89)。
明治3年(1870)4月、神祇少祐から神祇権大祐に昇進する(常世長胤『神教組織物語』)。 明治3年(1870)4月、「此頃平田延胤ハ宣教判官兼勤二任ゼラレ、小野述信ハ先ヲ切ラレ心ヨカラヌ体顕ハル。」(常世長胤『神教組織物語』) 明治3年12月26日、神祇権大祐兼宣教判官を免じられ、官禄340石の3分の1を終身下賜となり、東京府貫属を仰せ付けられる(日記『研究報告』128, pp.397-398)。
〈明治3年12月、白川資訓は本官である神祇大副を解かれ、権大祐兼宣教判官延胤は本官、兼職とも解かれる(常世長胤『神教組織物語』)〉。 明治4年(1871)1月22日、(天皇の)侍読に任じられる(日記『研究報告』128, p.398。明治天皇紀1月22日条→『神道人名辞典』の阪本健一)。「大御前御講釈図」(明治4年、平田延胤図)がある(『明治維新と平田国学』p.70に写真掲載)。
明治4年(1871)4月10日、「官禄340石の3分の1を終身下賜、東京府貫属」を取り消される(日記『研究報告』128, p.398)。
明治4年(1871)9月5日、宮内省七等出仕をおおせつけられる(日記『研究報告』128, p.398)。
明治5年(1872)1月24日、死去(「平田家系図」)。