第7回リアぺのQ&A
🙇‍ すべての質問を取り上げているわけではありません。
🐪 授業内で答える質問
Q. 「間違った」タヌキのイラストのところで、自分も〈うちに見る〉内容からタヌキだと認識しましたが、それは比較に書かれているとおり「正しい」タヌキとはかなりかけ離れています。「間違った」タヌキは社会的・文化的に形成された像だとは思っていますが、そのような実物とは大きく乖離した様式的な絵がなぜ生まれるのか、どのような条件を満たすなどしたときに指示対象と結びつけたり同一視したりできるようになるのかが気になりました。
A. 特定の外見が特定の種や概念をあらわす規約的記号(取り決めによって内容をあらわすもの)として確立するということだと思います。そういうタイプの画像表象の場合は、グッドマン的な記号説が有用かもしれませんね。なぜそういうふうになるのかはケースごとにいろいろな事情があるとは思いますが、一般的には現代人は実物よりも表象(ボードリヤールが言うところのシミュラークル)を目にすることのほうが多いからだと言えるかもしれません。つまり、固定した参照先(本物)からの距離があればあるほど、表象がずれていっても修正が働かず、表象の歪みがどんどん再生産・拡大するということです。見かたを変えれば、間違ったタヌキの絵は、〈タヌキ〉の絵としては間違いですが、〈世の中に出回っている(間違った)タヌキ像〉の絵としてはそれなりに正しいということですね。
Q. 民間美学とはいったいどういった例があるのでしょうか。
Q. 「民間美学」というのは、学問的に用いられる用語なのでしょうか。どのようなものをさしているのかいまいちわかりませんでした。民間療法は、主流の医学ではないが何らかの理論付けがされているもの、だと思います。美学に関しても、主流の美学ではないが、複数の人のあいだで共有される「このようなものが美しい/醜い」と言う理論が存在する、という話でしょうか。
A.
前回の授業では例示に失敗しました。"folk aesthetics"自体は専門的な美学のなかでしばしば使われる語です。
具体的に何がわかりやすい例になるのかわからないのですが、たとえば「美的判断は好き嫌いの表明でしかなく、人それぞれとしか言いようのないものである(だから論じる意味がない)」というような(わりとよく見かける)考えかた=理論が一例です。あるいは、作品解釈がどうあるべきかについて、単純に作者の発言をつねに正解として参照しようとする立場や、逆につねに自由に鑑賞してよいとする立場なども、ある種の素朴な理論が背後にあると思います。芸術(でもなんでもいいですが)の定義を断言するタイプの言説もそうですね(「芸術とは感情の表出である」「芸術とはこれまでになかったものを生み出すことである」etc.)。あるいはフィクショナルキャラクターがどのような存在のありかたをしているかについての非専門的な言説などでしょうか。
いずれにせよ、美醜の基準が素朴な理論のかたちで提示されるという話ではないです(美学は美醜の基準を問題にするものではないので。👉 美学のメタ的性格)。
🐪 描写内容の理論について
Q. 〈うちに見る〉内容に関しては人間が無意識に行っているものであると考えてよいのでしょうか? 特定の幾何学記号とそうではないものをどのようにして区別しているのでしょうか?
A.
基本的には、自動化された知覚プロセスによって生じるものを想定しています。わかりやすく言えば、とにかく〈見えてしまう形状〉です。とはいえ、慣れや取り決めによる自動化をどこまで許容するかはとくに深く考えていません。たとえば、図学のもろもろの投影図法(projection)に見て取れる三次元的形状は〈うちに見る〉内容に含めていいとは思いますが、それなりに慣習によって成り立っている知覚ではあるでしょうね。
参考:http://i-zukan.net/ic/pe_projection.htm
また〈うちに見る〉知覚が仮に自動的なプロセスだとしても、それが発動するかどうかは少なからず文脈によると思います。たとえば、白い紙の上に黒インクで描かれたシンプルな楕円を〈楕円〉として見るか〈角度をつけて見た円〉と見るかは文脈によって変わるでしょう。いずれにせよ、〈うちに見る〉内容が生じるメカニズムについては、今回の理論の守備範囲外です。
Q. 描写内容に関して、描かれているものすべてに対して具体的な認識内容が得られないとしても、部分的に得られることもあるかと思います。たとえば、授業で例に挙げられたナスカの地上絵において、全体として何を描いているのか分からないとしても、「この丸は目だ」という風に部分的な認識内容が得られるような気がします。今回の授業においては、全体的な認識内容が把握されないことを、「認識内容が得られない」とされていたような印象を受けましたが、描写内容の理論において「認識内容」とは、画像に描かれている個体が「どのような状態のどんな事物」なのかに関するものであって、上記のような部分的な認識は考慮されないものなのでしょうか?
A. 説明不足でした。全体/部分の話を混ぜると無駄にややこしくなりそうな気がして言及しなかったのですが、単純化しすぎたかもしれません。おっしゃるように、〈全体として何なのかはわからないが、部分についての認識内容は成立している〉というケースはふつうにあると思います。ヴォイニッチ手稿の例はそうでしょうし、ナスカの例もそうかもしれませんね。
Q. 不特定のものを描いた絵についても認識内容が言える、というところがあまり理解できませんでした。認識内容は絵から見て取れる情報から概念化される必要がありますが、それが不特定のものを描いた絵でも認識しうるのかが繋がりませんでした。そもそも不特定のものを描いた絵というのは抽象画とはまた違うのでしょうか。
A. これは説明不足かつ言葉づかいがよくなかったです。
一般に「不特定な」は以下の2つの意味で解釈できます。
a. 何であるかが特定されていない(not specified)
b. 特定の個体でない(not particular)
この授業で「不特定のもの」と呼んでいるのはbのほうであり、aのほうは「なんだかわからないもの」と呼んでいます。
「不特定のものを描いた絵」は、正確には「何を描いているかははっきりしているが、特定の個体を描いたものを描いたわけではない絵」ということです。不定名詞句に相当するということですね。
Q. 不特定のものを描く画像の場合は帰属性質と指示対象がない、という説明がよく理解できなかった。例えば一般的なキリンを描く場合、あるキリンを特定しているわけではないが、キリンは首が長く斑点があるというように指示対象と帰属性質を指すことができるのではないか。
A. これも説明不足でした。以下説明しなおしです。
まず前提として、この授業での「指示(reference)」は特定の個体をピックアップすることに限定しています(言語哲学や論理学の標準的な用語法にならっています)。したがって、ここで言う「指示対象」は特定の個体です。場合によっては「特定の個体集合を指示する」という言いかたは許容されますが、「不特定のキリンを指示する」という言いかたはできません。
一方でおっしゃるように、ある画像が一定の性質(たとえば〈首が長い〉〈斑点がある〉etc.)を認識内容として描き、その性質がキリンが一般に持つ性質であると述べることはあります。前回の授業で挙げた例では、辞典の挿絵のケースがそれに相当します。
前回の授業では、辞典の挿絵の説明として「典型的な個体(たとえば典型的なキリン)を指示対象にして、それに性質を帰属している」と説明しましたが、別のしかたでの説明もありえると思います。全称命題(あらゆるXはPである)をあらわすものとして説明する方向です。
全称命題は、特定の個体を指示して性質を述定するかわりに、不特定のxなるもの(個体変項と言います)を想定し、その範囲を定めたうえで、xに性質を述定するものです。具体的には、たとえば「任意のxについて、もしxがキリンならば、xは首が長くて斑点を持つ」のようなかたちになります。この場合、xの範囲を「キリンであるもの」にしぼったうえで、xに特定の性質を帰属させています。
全称命題と同様の内容を持つ画像は、少なくとも帰属性質を持っているとは言えますし、キリンの全個体を指示対象にしていると言ってもいいかもしれません。そのように「指示」の意味を広くとれば、不特定のものを描く画像でも指示と述定が成り立つ場合があると言っていいでしょうね。
Q. 辞典の挿絵の例は、不特定のものを描く絵に指示対象と帰属性質の区別がある事例の一つとして挙げられているという認識で良いでしょうか。
A. 上の回答の通りです。あまり考えてなかったですが、そう言ってもいいでしょうね。
Q. 特定の個体を描く画像は平叙文に近いという説明が興味深かった。ただ例えば肖像画などにおいて、指示と述定のセットで命題が構成され真偽が問えるのは範囲が限られるのではないかと思った。ナポレオンの肖像画を見て、「ナポレオンは(描かれているように)禿げである」という命題を設定したとき、「(描かれているように)禿げであるかどうか」は程度問題であるので真偽を確定させるのは難しい気がする。
A. おっしゃる通りです。その問題意識で書いた/発表したのが以下なので、ご興味があれば参考にしてください(上の資料は前置きが長いですが、後半でその話をしています)。簡単に言えば、発語内行為の一種としての主張(assertion)をするために画像が使われる際に、命題内容に一定の取捨選択が生じるということです。
(PDF) 絵の真偽:画像の使用と画像の内容 | Shinji Matsunaga - Academia.edu
絵の真偽:画像の使用と画像の内容
Q. 文の構造と画像の構造を類比する考え方が新鮮で興味深かったです。逆に、単称命題における述定とは異なる点はどんなものがあるのか、うまく説明しきれない例はないのか気になりました。
A. 1つの上の疑問にあるように、画像の場合、必ずしもすべての帰属性質が主張されるわけではない(それゆえその主張されていない部分については真偽が問われない)という特徴があります。これは言語にはあまり言えないかもしれません(グライス的な会話の含み/推意(implicature)も含めて考えれば、言語にも似た事情があるかもしれませんが)。別の機会に取り上げる可能性がありますが、画像を使って嘘をつくとはどういうことかという話が関連する問題としてあります。
参考:レジュメ|エマニュエル・フィーバーン「画像で嘘をつく」(2019) - obakeweb
Q. 「最終的に出来上がった画像は、そのモデル(もしあれば)についての真なる情報を(描写内容とは別に)ふつう運んでいる」とありましたが、この点について写真と手書きの絵で区別はないのでしょうか。授業にもあったように、絵には画家の意図なども介入しますから描写内容が必ずしも真にはならないのでは?と思いました。
A.
おっしゃるように、一般に写真と手描きの絵とでは、その点で大きな程度差があります。具体的には、たとえば裁判で手描きの絵が証拠に(ほぼ)ならないという事実があります。これはおっしゃるように「画家の意図などが介入しないかどうか」、専門的にいえば「信念独立(belief-independent)」かどうかという違いで説明されます。その点に写真の独特さを見いだす考えは伝統的にありますが(下記リンク先参照)、近年のデジタル写真の普及とその加工の容易さによってその違いが薄れつつあって、結果として両者は大差なくなっている(どちらも多かれ少なかれ信念依存である)という立場もあります。とはいえ、機械的なプロセスが制作の大部分を占めるという点は、まだまだ写真のきわだった特殊性でしょうね(「手描きの絵」もだいぶ機械ベースの部分が増えつつありますが)。
参考:写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7
ちなみに〈画像が真なる情報を運んでいること〉と〈画像の描写内容が真であること〉はいちおう別のこととして考える理論なので、その点は注意してください。
Q.
認識内容と〈うちに見る〉内容のそれぞれで分からないことがあるので質問です。
〔①〕認識内容
この内容で描写内容に施す解釈はどの程度のものなのかがわからないです。レジュメでは「直接見て取れる三次元の色と形を自然に解釈して、どのような状態のどんな事物が描かれているかを認識するレベル」の内容とあります。これを読んだとき、例えば『いじめ』の画像は「目がやたら大きい女の子」が認識内容かと思いましたが、具体例では「目の大きさがはっきりしない女の子」となっていました。「自然な解釈」がどの程度のものなのかがわからない点に問題があるのかと思います。
A①
目が大きいキャラクターは例として悪かったかもしれません。フィクショナルキャラクターの画像の場合、場合によっては自然な解釈が二通りあるためです。キャラクターの回でまた説明します。
「自然な解釈」の実例に揺れがあること自体は大きな問題ではないと思っています。画像の働きを説明するための理論であって、個々の画像の解釈を確定させるための理論ではないので。
〔②〕〈うちに見る〉内容
これもまず「概念化以前の内容」はどの程度の概念化を許すものなのかわかりません(幾何学と色だけでしょうか)。
上の疑問と関連しますが、「概念化以前の内容」と「見て取れる三次元の色と形」という二つは矛盾しているように感じます。概念化の程度の問題かもしれませんが、なぜ画面上の平面図形を空間図形に概念化することはokで、なぜ他の対象(目とか)への概念化は〈うちに見る〉内容に含まれないのでしょうか?概念化以前なら、「二次元の色と形」が問題になるのでは、と思いました。(そもそも、ナナイの三層のBがどのくらいの概念化を許しているのでしょうか?)
A②
便宜上その記述に色名や形状名を使っているだけで、〈うちに見る〉内容レベルでは幾何学的形状も色も概念化されていないものとして想定しています。
その話とは別に、〈うちに見る〉内容レベルで概念化を許容したほうがいいような気もしますね。単純に〈目がやたら大きい〉くらいは〈うちに見る〉レベルで言いたいので。ただ、そうなると認識内容とどう区別をつけるのかという問題は別途生じます(区別をつけないというオプションはとりあえず考えません)。カルヴィッキが「骨だけ内容(bare bones content)」と「肉づき内容(fleshed-out content)」という区別を提案していますが、それぞれここでの「〈うちに見る〉内容」と「認識内容」に大まかに相当するものです。カルヴィッキの「骨だけ内容」は「可能な肉づき内容の共通部分(最大公約数)」的な定義なので、それでいけるかもしれません。この区別は、カルヴィッキのほぼすべての論文に登場するものですが、以下の本での説明が一番わかりやすいです。
John Kulvicki, Modeling the Meanings of Pictures: Depiction and the philosophy of language (Oxford: Oxford University Press, 2020), chap. 2.
いずれにしろかなりクリティカルな指摘で、すでに描写の哲学のエッジに近いところにいると思います(この話題で論文になります)。
〔③〕これらの疑問から、さらに写実性についての疑問です。
概念化されていない内容と、概念化された内容の間の乖離から写実度合いを判定するうまみがよくわからないです。むしろ「目の大きな女の子」と「大きさが不明確な女の子」のような、概念化された内容の二つの層の乖離具合を見た方がわかりやすくないでしょうか?
概念化された内容を、幾何学的な記述に還元して、〈うちに見る〉内容と比較すれば、写実性は捉え切れるのでしょうか。画像の雰囲気や表現内容などは、幾何学的な形状に還元されない、かつ写実性に関わる要素ではないでしょうか?
A③
1点めについてはおっしゃる通りですね。別のかたからの指摘にも「カテゴリーが別なので比較は無理なのでは」というものがあって(1つ下のコメントを参照)、その通りだと思いました。比較するための選択肢としては、2点めに書かれているように、両方視覚的性質にしてカテゴリーをあわせる方向もあると思います。つまり、解釈によって引き出される概念化された内容(認識内容)からさらに具体的な見た目を想像的に引き出し(ある種の想像上の例化)、それと概念化以前の〈うちに見る〉内容を比較するという方向です。どちらが理論としてより便利なのか、どちらが実際の認知プロセスにより則しているのかはよくわかりません。
雰囲気や表出的内容が写実性に寄与するというのはよくわかってないです(想定している「写実性/リアリズム」の意味が違うのかもしれません)。デフォルメされた似顔絵が(デフォルメであるにもかかわらず)モデルの特徴をよくとらえているみたいなことでしょうか。
Q. 〈うちに見る〉内容と認識内容との差が写実的な絵と様式化された絵の分類に関係するとはあまり思えません。というのも、〈うちに見る〉内容はあくまで純粋な色形であり、そこに概念的な対象(目・鼻など)が含まれている訳ではないからです。すなわち、〈うちに見る〉内容は概念対象ではない(色形という印象レベルでは概念的であり得るが、少なくともここで問題となるべき概念ではない)ため、認識内容と同一の範疇に属しておらず、それとの乖離という問題がそもそも生じないのではないでしょうか。
A. おっしゃる通りですね。上の回答のA③を参照ください。非常にクリティカルなご指摘だと思います。
Q. 描写内容の理論によるいろいろな事例の説明の中に、『いじめ』のキャラクターの絵の認識内容について、「そこまで大きくないはず」との説明がありましたが、これは「現実世界に」そのキャラクターがいると仮定したときの認識内容であって、その「キャラクターの絵自体」の認識内容とは言えないのではないでしょうか。私が理論的概念を用いてこの絵を説明するなら、〈うちに見る〉内容は「特定の形をした白黒(青)の何か」で、認識内容は「目の大きな女性の顔」としたいところです。それとも、描写内容の理論というのは、描写内容を現実世界に存在する「自然なもの」として説明するための理論なのでしょうか。
A. 2つまえの回答のA①を参照ください。
「描写内容の理論というのは、描写内容を現実世界に存在する「自然なもの」として説明するための理論なのでしょうか。」という点は明確に違います。むしろ、画像にまつわるわれわれ現代人の実践(=実際にやっていること)を説明するための理論です。なので、くだんの絵の内容について「目が大きいキャラクターが描かれている」と言う人が実際にたくさんいるのであれば、その直観を何らかのかたちで説明する必要があります。
Q. シミュラクラ現象で人の顔のように見えたコンセントの写真を撮った場合、うちにみる内容がコンセント、認識内容が人の顔となると思うが、この事例も〈うちに見る〉内容と認識内容がずれているケースの良い例となるだろうか。
A. 錯視の例じゃないでしょうか。ゴンブリッチ的な知覚の切り替えによる説明(認識内容が2つあって切り替わる)が適切な気がします。
Q. 描写内容の理論は、独特な画像がどのような点で独特なのかをひとつの概念セットで説明するためのものだと理解しました。つまり、描写内容の理論は、たとえばデフォルメ画像に関して、〈うちに見る〉内容と認識内容において物体の形状が大きくズレているから当の画像は独特なのだと言うためのものであり、なぜズレているのに認識できるのかについては別の話になる(たとえば授業で紹介されたように特定の知識が必要なのだ……のように)という風に捉えたのですが、この理解で正しいでしょうか?それとも、後者のような話も描写内容の理論に含まれるのでしょうか?
A. 今回の理論については、前者(どうであるかを扱う)の仕事をしているという理解で問題ありません。後者(なぜそうなのかを扱う)も含むという考えもできるでしょうが、認知のメカニズムの話になるので、最終的には「実験心理学にお任せ」みたいな感じになると思います。とはいえ、哲学者の考えかたもいろいろで、とある心の哲学の専門家に話を聞いたところ、自分の仕事は理論心理学とほぼ変わらないと言っていました。哲学は個別の科学の仕事になるまえの整理部門を担当するもの、くらいのことかもしれません。
そういう哲学観のおすすめ文献:戸田山和久『哲学入門』ちくま新書
🐪 その他
Q. クリリンの鼻について、鳥山明が「クリリンに鼻はない」「皮膚呼吸である」という旨の発言をしています。これがリップサービスもしくはでまかせであるという(濃厚な)可能性を置いておくと、描いた人間に「鼻がない」と明言された段階でクリリンには本当に鼻がないということになるような気がしました。であれば、〈うちに見る〉内容にも認識内容にも相違なく、常に「クリリンには鼻がない」ということになり、鼻血が出る場面でだけ〈うちに見る〉内容(=鼻がない)と認識内容(=鼻がある)が食い違うことになるように思われたのですが、理解としてあっていますか?作者の発言がどれくらい重要なのか(あるいは重要でないのか)という疑問にもつながるように感じました。
A. 個別の作品解釈の問題なので、いろいろなとらえかたがあるとは思います。クリリンのケースは、おっしゃる通り「〈鼻がある〉が認識内容になっている」と言い切るのはかなり微妙でしょうね。とはいえ、バクテリアン戦で「鼻がない」ということを悟空が指摘することがメタフィクション的なギャグになっているわけで(これも解釈ですが)、そのかぎりではどちらかと言えば〈鼻がある〉というのが(少なくともその場面を読むまでは)自然な解釈なんじゃないかとは思います。『ドラゴンボール』自体、ギャグ要素が強かった時期からだんだんシリアス方向に行くという流れがある作品なので、あまり真剣に考えてもしょうがない気もしますが。作者の発言(およびそこから推測される意図)は、「正しい」認識内容=解釈は何かという点で大きく関わると思います。
再掲:クリリンに鼻がない問題!なのに鼻くそ鼻血はある矛盾w | ドラゴンボールにツッコむサイト
参考:分析美学における作品解釈をめぐる議論
Q. 細かいところですが名探偵ホームズの事例でこの世界のキャラクターがよくよく見ると(見なくても)人でも犬でもない丁度中間的な生物であることが気になりました。彼らの外見を「犬」と言う時点ですでにその背後に慣習的な次元、暗喩や象徴的な指示対象として「人」を見ていることが少なくない気もします。自然的主題の範囲において彼らを犬だとみなすことももちろん可能でしょうが個人的にはあくまで架空の存在という印象を受けました。
A. おっしゃる通り、描かれているのは正確には〈犬〉ではなく、〈姿勢が人間で顔が犬っぽい何か〉ですね。
Q. これは個人的な話になってしまうが、自分は「人物を見分ける能力」が非常に高いと思っていて(一度会った人は、後ろ姿や遠目からでも認識できる)、この能力は内容から認識内容を引き出すメカニズムに関係するのだろうかとふと思った。
A. 人間に対する再認能力(ある種のパターン化の能力)が高いということでしょうね。僕は人間に対するそれがわりと低いのでうらやましいです。