第5回リアぺのQ&A
🙇 すべての質問を取り上げているわけではありません。
🐫 授業内で答える質問
Q. 前々回くらいから言語的な記号システムと画像的な記号システムの違いとして、「にしこり」を出されていますがどう見れば顔に見えるのかよく分かりません。
Q. 絵画の内容を把握する際には、人によって認識に差がでる(〇〇が描写されていると気づく人と気付かない人がいる)ことがあります。先日間違い探しの例がありましたが、この場合もまた、表面を知覚できていないということになるのでしょうか。表面=形式とは見えており(視界に入っており?)かつ知覚しているもの、ということで、個人に帰するものと考えると、人によって見ている画像が異なる場合もあるということでしょうか。
A.
そこで言う「内容」は、この授業で言う「描写内容」(=パノフスキーの「事実的主題」)という理解で回答します。
ある人が描写内容を把握できないという場合、大まかに3種類のケースがあるかなと思います。
(a) そもそも表面の要素に気づいていない場合。おっしゃるように、間違い探しはこのレベルでの遊びとして考えたほうがいいんじゃないかということを以前のQ&Aで書きました。
(b) 表面の要素は見えているが、そこから三次元の物体のゲシュタルト(形態)を組み立てられない場合。上の「にしこり」がわからないケースなどはこれに相当すると思います。これも知覚レベルの問題です。
(c) 三次元の物体の形状は見えているが、それが何なのかわからない場合。これは再認(recognition)レベルの問題で、基本的に知識に依存します。ヴォイニッチ手稿の絵は何を描いているのか、みたいなのはこのレベルの話かもしれません。
第3回授業で説明しましたが、「正しさの基準」という考え方を持ち出すかぎりは、仮に人によって異なるものが見えるとしても、画像の「正しい」描写内容は変わらないということは言えます。
Q. パノフスキーの意味の三層で、やはり内在的意味がイメージしづらく感じました。例として現代人で日本生まれで西洋育ちで高校生で...といった人に帽子を持ち上げて挨拶された人が、行為者に対して海外で身に付けた挨拶なのだろうか、高校生なのにしっかりしているなと感じた、というように、自然的意味と習慣的意味を理解した上で対象が置かれているコンテクストを考慮したときに新たに立ち上がってくる、習慣的意味よりさらにメタな次元での意味なのだろうかと考えたのですが、合っていますでしょうか。
A. ひとつはそういう感じです。それに加えて、パノフスキーが強調しているのは、そうした「コンテクスト」自体がその個々の具体的なふるまい(あるいはそれと同種のふるまいの集まり)から推測できる面もあるということだと思います。
別の大学の授業資料ですが、近い話題について取り上げたことがあるので、共有しておきます。この資料で扱っているのは「様式論がやっていること」ですが、この資料における「様式」を「慣習的主題」や「自然的主題」に置き換えて読むと、パノフスキーのいうイコノロジーの仕事にかなり近いものになるはずです。
Q. パノフスキーによる意味の三層について、慣習的主題は、自然的主題を把握した上で初めて引き出せるものであって、その意味では、自然的主題は「一次的(primary)」であり、慣習的主題は「二次的(secondary)」であるとして、自然的主題と慣習的主題の理解には明確な順序があるとされているが、その反例はあるのでしょうか(私には思いつきませんでした)。また、慣習的主題と内在的意味に関しても、慣習的主題を把握しないと内在的意味は見出だせないというような順序だてはあるのでしょうか。
A.
慣習的主題が先に特定されて、そのあとで自然的主題がわかるというケースは考えられなくはないと思います。
たとえば、下手な画家が描いた次のような絵があるとします(架空の例です)。
事実的主題として何か人型のものが描かれている。
事実的主題として何か円いものと棒状のものを持っているのはわかるが、普通に見るかぎり、その持ち物が何であるかはわからない。
タイトルやその他の情報を手がかりに、その絵に描かれている人物が聖ホゲリヌスであることがわかった。
聖ホゲリヌスのアトリビュートはラーメンである。
絵を見返してみると、たしかに持ち物はラーメンのどんぶりと箸に見えなくもない。
とはいえ、あまり標準的なケースではないでしょうね。
慣習的主題と内在的意味の関係については、パノフスキーは、慣習的主題以外の情報(たとえば様式や自然的主題)をもとに内在的意味を引き出すことはできると考えているはずです。ただ定義上、内在的意味は、作品が持つ形式や内容をもとに推測するとか、あるいはその作品が作られた当時の諸文脈を考慮して作品の立ち位置を理解するというかたちで引き出されるものなので、原理的に言って他のレベルが特定されたあとに出てくるものでしょうね。
🐫 グッドマン・構造説関係
Q. 〔多義性と冗長性について〕
①多義性:英単語"urchin"は文脈によっては「ウニ」だけでなくハリネズミも表す。
②冗長性:雨に複数の呼び方がある。
というような理解で大丈夫だろうか。
A. いくつか限定をつける必要がありますが、おおよそその理解で大丈夫です。
多義性にせよ冗長性にせよ、「同じ記号システム内で」という限定が必要です。"urchin"の例は問題ないですが、たとえば"chat"は英語では〈おしゃべり〉を意味し、フランス語では〈猫〉を意味するというのは、別の記号システムで別の意味を持つというだけのことなので多義性の例ではありません。
冗長性について。雨にいろんな種類や様態があってそれが呼び分けられている(「さみだれ」「しぐれ」「夕立」etc.)という話ではなく、包括的なカテゴリーとしての〈雨〉そのものにいくつかの呼び名があるという話であれば、その理解で大丈夫です。包括的なカテゴリーとしての〈雨〉を指す語が複数用意されている言語があるかどうか知らないですが(日本語だと比喩を除けば「雨」以外に言わないですよね)、比較的わかりやすい冗長性の例は、五線譜の記号システムにおいてド♯の記号とレ♭の記号が同じ音階(特定の周波数の音)を指すというケースです(考え方によっては別の意味だとも言えますが)。
Q. 自然生成性について。グッドマンの理論に対して寄せられた「言語を理解するにはいろいろな取り決めについての学習が必要だが、画像を理解するのにその手の学習はそこまで必要ではない。」という批判が紹介されたが、絵画を鑑賞する際、鑑賞の方法を学ばなければ理解できない様式があるのではないかと思う。キュビズムのように抽象的な絵画は、あまりに抽象的過ぎるとその画像において何が表現されているのか全く分からない。もちろん写実的な画像に関していえば批判の通り特別な学習なしに理解できると思われるが、学習を必要とする画像の様式も一定数存在するのではないだろうか。
A. キュビズムの例から言えるのは、〈その内容を読み解くのに部分的に学習が必要な画像がある〉くらいのことなので、それだとグッドマンの理論を擁護するのには弱いでしょうね。グッドマンの理論は写実的な絵も含めた話ですし、また様式化された画像あっても言語の読み解きに必要な学習との質・量の違いがあることは依然として否定できないはずなので。とはいえ、そうした高度に様式化された例に限定して説明する場合は、グッドマン的な記号説もそれなりに便利だということは言えると思います。
「抽象画」という言葉自体がミスリーディングなところがあって、キュビズムくらいなら十分描写をしていると言えますが、モンドリアンのコンポジションなどは描写をしないタイプの(それゆえこの授業の用語法では「画像」とは呼べないタイプの)抽象画です。
Q. 補色画像の問題がなぜグッドマンの批判になるのかがよくわかりませんでした。システム自体へのルールが加わるならそれは違う記号システムであり、経験が異質になるのも当然ではないのですか?
A. 経験が異質になるという点自体に批判のポイントがあるわけではないです。経験が異質であり、それゆえ違うタイプの記号システムと考えるのが普通のはずなのに、グッドマンの理論だと同じ記号システムだということになってしまうという批判です。ようするに、区別すべきものを区別できていないという批判です。
Q. グッドマンへの反論の一つ目(補色画像記号システム)がどのように反論になっているのかよくわかりません。別にそのような「普通でない画像記号システム」があっても問題ないのではないのでしょうか?
A. それを規約的に「画像的」と呼ぶことはできるかもしれないが、標準的な用語法やカテゴライゼーションからすれば直観に反する、という批判でしょうね。素朴に言えば、画像が一般に持つはずの(そして画像以外は一般に持たないはずの)何か重要な特徴を捉え損ねている、ということだと思います。
Q. グッドマンの理論に対する「直感的に無理がある」という批判を先生が認めて、「確かに、直感になるべく寄せていきたい」とおっしゃっていたのが印象に残りました。哲学はとにかく理論が先行する学問だというイメージがあり、それが苦手意識の一因になっていたので、そういう批判をしても良いのだとほっとしました。
A.
哲学(とくに分析哲学)において、ある主張が直観(intuition)に合致するかどうかというのは、その主張の評価基準のひとつとして頻繁に持ち出されるものです(あくまで「評価基準のひとつ」でしかないですが)。なので、イメージと違うかもしれませんが、「直観に反する」という言い方での批判はかなり頻出します。主張に対して反例を提示して批判する場合も、それが「反例である」ということについて暗黙のうちに直観が使われているケースが多いです。
一般化すれば、「ある仮説が諸々のデータと整合するかどうかは、その仮説の評価基準のひとつになる」という科学的な営み全般に言える話なのですが、哲学は「データ」の中に直観(明らかに「主観的」と言いたくなるもの)がしばしば含まれるという点で他の分野とはちょっと違うと言えると思います。
参考(私見):
直観へのアピールは、哲学の方法としては伝統的であり、またいまでも支配的ですが、その方法が批判されることもしばしばあります。近年の分析哲学の中で盛り上がりつつある「実験哲学」というムーブメントは、直観をすぐに持ち出す方法に対する批判としての性格がかなり強いです。
勉強用の文献:
鈴木貴之『実験哲学入門』勁草書房、2020年
Q. グッドマンへの批判を見ていると、構造説はかなりロジカルな説明を行える一方で、ヒトの認識をある枠にはめ込もうとするあまり、理論に穴が生じてしまうことが多そうに感じた。そもそもヒトの認識のような自由度の高い事象について構造説で説明を試みようとすること自体が間違いのように思える。
A.
グッドマンの理論の話
グッドマンの説だと慣れてしまえさえすれば何でもありということになるので、人間の認識の自由に対する寛容度はむしろ大きいと思います。再認説のような、人間に(おそらくほとんど生得的に)備わる認知メカニズムを前提とする理論(自然主義や物理主義に近い理論)のほうが、ものの考えかたとしては「狭い」でしょうね(どちらが理論として優秀かはともかく)。
たんに「経験科学の知見をもうちょっと参照すべき」という話ならその通りだと思います。
理論一般の話
グッドマンの理論が狭量に見える(「枠にはめ込もうと」しているように見える)のだとすれば、理論とはそもそもどういうものかについての理解の問題なのかなと思います。
基本的に、理論は考えを整理したり言いたいことを適切に表現するための道具でしかないと考えておくと、無用の反感を抱かなくて済むのではないかと思います。道具として有用性は、どういう問いや課題があるかによって変わります。なので、仮にぴんとこない理論があれば、それはたんに関心を共有していないだけかもしれません。
ついでの私見:
Q. 「透明性」について。ある画像生成システムが「対象の画像表面のうち黒以外の色の極小範囲を黒くする」という仕方で生成していく場合、始めの内は透明性が確保されていてもその内画像ではなくなるでしょう(対象の画像として知覚はできなくなるでしょう)。つまり砂山のパラドクスやテセウスの船のようなパラドクスが生じると思われます。知覚的な類似性を基準とした場合は「それが画像であるか否か」を考えられそうなものですが、カルヴィッキの考えでは取り扱うことはできるのでしょうか?
A.
たとえば、コピー機によるコピーを繰り返すことで画質が劣化する、みたいなケースを想定されているでしょうか。カルヴィッキが示している透明性の定義は、「R(ある記号トークン)とRR(Rを表す記号トークン)がある意味で同一の記号タイプになる」くらいの話なのですが、もし推移性が言えるとすれば、RとRRR(RRを表す記号トークン)も、RとRR......RRも同一の記号タイプになると言わないといけなさそうですね。カルヴィッキは透明な記号システムにおいて推移性が成り立つかどうかについてはおそらく言及していなかったと思いますが、推移性が成り立つとすれば、たしかに提示されている事例の説明が難しそうという意味で、理論的な弱みになりそうです。
推移性の問題を別にすると、カルヴィッキは、画像の画像が元の画像より劣化するようなケースをどう考えるかという問題自体は十分に自覚していて、けっこう細かく論じています。具体的には、(ラスター形式で解像度が低めの)デジタル画像やぼかし画像(ピントがあってない写真など)を作るシステムは透明なのかどうかという論点について議論しています(On Imagesのpp. 64–)。かなりテクニカルな話で、正直なところ十分に理解できていないのですが、ようするに透明性に程度の差を認めている感じで、デジタル画像やぼかし画像を透明性の度合いが相対的に低いものとして考えるという戦略をとっているようです。とはいえ、その戦略が成功しているのかどうかはわかりません(というかそこまで撤退するのであれば、おっしゃるようにもう「知覚された類似」でいいのではとも思います)。
ちなみに細かいことですが、カルヴィッキは「あるものが画像か否か」という話をしているわけではなく、「ある記号システムが画像的な記号システムか否か」という話をしています。透明性も、個々の画像がそれ自体で持つ特徴ではなく、記号システムが持つ特徴です。
Q. 一瞬だけ触れられたカルヴィッキの「透明性」の概念に興味が湧きました。認知の問題に思える対象と記号の類似性の問題をあくまで唯物的に解決しようとしている点が逆張り的で好きです。とはいえなぜ彼がそこまでして批判の多いというグッドマンの理論を踏襲しようとしているのかは気になります。他の問題においても近い立場を持っていたりするのでしょうか。
A. おっしゃるようにまさに逆張りですね。カルヴィッキは、画像表象を単独で取り上げて論じるのではなく、画像表象を含めたさまざまな種類の表象を比較する(共通点と相違点を明確化する)ことに一貫して関心がある人です。そういう観点からすると、構造説的なアプローチが一番しっくりくるのだと思います(僕も似た関心を持っているのでよくわかります)。一方で、カルヴィッキはグッドマンの思想全体にそこまで思い入れがあるわけではないでしょうね。たとえば、グッドマン的な極端な唯名論にはとくに同調していません。
Q. 構造説におけるフルカラー画像の記号システムにおいて適切と許容される表現は「二次元の表面(たとえばキャンバス)上に任意の色を持った任意の形が配置されている」ものだとあった。では、たとえば飛び出す絵本のように、個々の二次元表面に描かれたイラストが複数集まって三次元構造をとっているとき、それは画像として許容されないのだろうか。私個人の感覚としては、飛び出す絵本のイラストなどは、どちらかといえば、三次元の立体物というより、「画像」という感覚だった。
A. 飛び出す絵本については「複数の画像が立体的に組み合わさって全体を構成しているケース」くらいの説明はできると思います。彫刻のように完全に立体的な造形になるわけではなく、平面の部分は少なからず維持されているので。そのように考える場合、「構成要素は画像だが、全体としては画像とは言いづらい」ということになるかもしれません。
Q. 言語や音楽などの分野を例に挙げて記号システムの説明がされていたが、現代芸術の一つのあり方として、属するシステムの破壊というところがあるように感じた。音楽であれば、五線に音符ではなく文章で指示が書かれている曲の話を聞いたことがある。また、現代のものでもないが、自由律俳句などは俳句のシステムを超えていると言えないだろうか。
A. 「破壊」というよりは、既存のシステムを前提にした「逸脱」と言ったほうがいいかもしれません。グッドマン自身は、そういう芸術的な(前衛的な)表現を説明することにかなり自覚的な論者なので、自分の理論がそういう現象もカバーできるものだと考えていると思います。
🐫 パノフスキー関係
Q. パノフスキーの3層の分類ですが、宗教画ならともかくとして、写実的な風景画などには内在的意味を見出しにくいように思えます。必ずしも全ての絵に3つの層全てが存在する訳では無いと考えて良いのでしょうか。
A. 慣習的主題がない絵は普通にあります。その意味で意味の3層がない絵はあります。一方、内在的意味については、パノフスキーはおそらくすべての絵が持つと考えていると思います。イコノロジーは、その作品を取り巻く諸前提をその作品から読み込む(あるいは逆にそうした諸前提のもとに作品を位置づけて解釈する)ということだからです。
Q. パノフスキーの考えの中では、作品にこめている作者の想定した意味は考慮されていないのでしょうか。あくまで鑑賞者が作品を見て一般的に感じ取るものについての分析でしょうか。
A.
まず、今回紹介したのは意味のレベルが区別できるという話であって、どの解釈が正しいか(またその基準は何か)という話ではないです。解釈の正しさの話になれば、作者の意図を基準にすべしという考え(=意図主義)は標準的な立場のひとつではあります。これはパノフスキーもとくに反対しないと思います。次の回答も参考にしてください。ただし、内在的意味に関しては、意図に訴えるのがナンセンスなケースは多いでしょうね。それは定義上、作者自身が無自覚であることが多いものなので。
あるいは、個々の作品に独自の意味(idiosyncraticな意味)のことを想定されているなら、それについてはパノフスキーの理論はカバーしていないというお答えになります。これは言い換えれば、パノフスキーが問題にしているのは美術史学の方法論であって、個別の作品批評のやり方の話ではないということかもしれません。
Q. 特別な取り決めなしに自然に把握される自然的主題の内容の判断は人によって、その人が属する文化社会などによっても異なると思いますが、画像が表す内容として正解・不正解はあるのか気になりました。
A. 何であれ作品の内容について論じる際には、解釈(=意味を引き出すこと)の正しさの問題はほぼつねに付きまといます。第3回の授業で説明したように、〈画像は正しさの基準を持つ〉という考え方を採用するかぎりで、自然的主題=描写内容についても解釈の正誤は問えます(ウォルハイム的な意図主義を採用するかどうかはともかく)。もちろん個々の事例で正しい描写内容が何であるかはっきりしないことはいくらでもありえます。このへんは画像解釈に特有の問題ではなく、作品を解釈すること一般の問題として考えた方がいいですね。
Q. パノフスキーの意味の三層構造論における「内在的意味」のレベルを理解するための様々な情報にフォーカスするのがイコノロジーであるとするならば、「慣習的意味」もその時代や場所に依拠する部分があるという点で、イコノロジーに内在してしまうのではないか、と思いました。その点の区別を理解するのが難しいです。
A. その理解で問題ないです。イコノロジーは様式論やイコノグラフィーの知見を部分的に取り入れるでしょうし、イコノグラフィーは基本的に事実的主題の解釈を前提とします(まず事実的主題を特定しないと慣習的主題を引き出せないので)。なので、実際の研究の内容において重複する部分があるのは明白ですが、一方で研究の主な動機や目標がどこにあるかという点で区別することはできると思います(相互排他的に区別する必要もあまりありませんが)。
Q. 慣習的主題と内在的意味の違いがよくわかりませんでした。内在的意味のほうは、作者や作品を取り巻く状況が無意識のうちに作品内に含まれるということでしょうか。
A. 本当に無意識かどうかはケースによると思いますが、おおむねその通りです。
Q. 慣習的主題と内在的主題は作品などを見る人のリテラシーによってその境目が曖昧であるように感じたのですが、慣習的主題はいわば「常識」「前提」であるといえるもので、内在的主題は批評の対象となるもの、すなわち作品に入り込んで掴みにいかなければ把握できないもの、という理解で大丈夫でしょうか。
A. おおむねその理解でよいと思います。慣習的主題のほうは「同時代のリテラシーがある人であればわかる」くらいのものです。内在的意味は、おっしゃるように解釈者ががんばって引き出すものでしょうね。
Q. 慣習的主題が自然的主題に変わることがあるのかが気になりました
A. 境界はそこまで明確ではないので、あると考えた方がいいでしょうね。
Q. パノフスキーの意味の区別に関して、自然的主題と慣習的主題の区別には曖昧な部分も多いのではないかと感じました。例えば自然的主題として「帽子を持ち上げた」や「椅子が描かれている」ということが例に挙げられていましたが、「帽子」や「椅子」に馴染みのない文化圏ではそれは自然に把握されるものではないし、あるいは特定の文化圏に独自な「帽子」や「椅子」が描かれている場合、他の文化圏の鑑賞者は自然にそれと判別できないと思われます。これらは極端な例かもしれませんが、自然的主題を規定する際に、背後に「現代の文明人ならば自然に把握できる観念」という理想的な像があるように見受けられました。
A. その通りですね。
Q. b2の表出的意味とcの慣習的意味は境界線を引くのが難しいのように思える。表出的意味における、特別なとりきめなしで理解できる自然的な部分がどれほどまで私たちの共通の認識として当てはまるのかはどのような手法で定まっていくかが気になった。
A. もっともな疑問だと思います。
Q. パノフスキーの意味の三層の話題で、表出的意味が気になった。実際にそうであるかどうかはともかく、「ご機嫌である」とか「親しみがある」ということを慣習がなくても人間が自然に読み取れるというのは少し疑問に感じるところではある。例えば犬を躾ける際に大声で叱ると、犬はそれを人間が喜んでいると勘違いする場合があり逆効果であるという話を聞いたことがある。これは、「怒っている」という感情を「喜んでいる」というほぼ真逆の感情として取り違えていると言えよう。もちろん犬と人間は別物だが、例えば犬の代わりに幼児を当てはめてみても十分ありうる話である。このようなケースは、予想と実態が違ったという次元の話ではなく、そもそも「怒っている」ことを示すふるまいに対する取り決めを知らなかったということではないだろうか。逆に言えば、感情を理解するのにも何らかの慣習が関係していると考えられるのではないか。
A. おっしゃることはその通りです。ただ「自然的」は「生得的」や「先天的」とイコールではありません。「自然的」は、「理解するのに特段の努力を要しない」「自動化されている」「完全に恣意的なわけではない」などと言い換えていいと思います。なので、ある解釈パターンが一定の学習を経て「自然的」になることはありえます。実際、パノフスキーは明らかに自然的主題を〈日常生活上の概念をそのまま適用すればわかる意味〉くらいのものとして考えています(その点で慣習的主題との区別が微妙になるというのはおっしゃる通りです)。
Q. 自然的主題のなかの表出的主題とは、この授業の最初の方で紹介された"aesthetic"のリストで挙げられているようなもののことなのでしょうか??
A. "aesthetic"のリストで挙げられているのは美的性質(aesthetic property)ですね。一方で、表出的主題は、どちらかというと感情表現(expression)の話です。たとえば、「悲しげな音楽」とか「陽気な絵」とか言う場合における「悲しさ」や「陽気さ」のことです。とはいえ、作品に「表出」されるとされる「感情」が何なのかについては諸議論があり、ひとつの立場としては、表出されるもの(パノフスキーが言うところの「表出的主題」)は美的性質の一種だという考えもあります。
Q. 絵とは少し違いますが、特徴的な喋り方も文章の領域では”アトリビュート”足りえると考えていいのでしょうか?
A. 「特徴的な喋り方」だけだと何とも言えません。それがもっぱら登場人物が誰であるかを示すためだけに使われているなら、アトリビュートと同様の機能を持つ表現と言ってもいいかもしれません(文章でそういう表現を使う必要があまりわかりませんが)。ある実在の人が特徴的なパターンを持った話し方をしているという場合は、たんなる様式(style)です。
Q. 例えば、受胎告知はレオナルドダヴィンチのものが代表的であるが、他の画家もいろんな受胎告知を描いていて、その場面(聖母の様子や場所など)が全然違っていた。慣習的主題は、現在にも「〇〇と言えば××を持っている」という情報が伝わっているために、全然違う作風や絵でも同一人物を描いていることがわかるが、そもそもその慣習がどうやって伝わってきたのだろう、と疑問に感じた。場面であれば「受胎告知」というタイトルがついていれば、全然違う絵でも受胎告知を描いていることがわかる。しかし、〇〇は××を持っている、といったことは、きっとその時代では明記する必要もないくらい自明のことであるだろう。その自明が何千年も続いているのだろうか、それとも、なにか明記されていたものがあったのだろうか。
A.
ケースによっていろいろでしょうね。
キリスト教美術の場合は、聖書というベースになるテキストがありますが、それに加えて図像制作の手引書的なものが一応あったようです。16世紀末に書かれたチェーザレ・リーパの『イコノロギア』というのが有名らしいですが、それ以前の時代にどんなものがあったのか、どこまで共有されていたのかは詳しくないのでわかりません(リーパが参照しているテキストがいろいろあるんだろうと思いますが)。とはいえ、実際の作例では、どのキャラクターであるかがはっきりしないケースなどが普通にあります。パノフスキーが出している印象的な例は、「一方の手に剣を持ち、もう一方の手に男性の首が載ったお盆を持つ女性の絵の主題を、ユディトと解釈すべきかサロメと解釈すべきか」という問題です。これは面白い話なので、ご関心があれば『イコノロジー研究』を読まれるのをおすすめします。
仏教美術の場合は、「儀軌」という儀式に関わるいろいろな取り決めを書いたテキストがあって、そこにそれぞれの尊格(仏のキャラクターのこと)の持物についての説明があったりします(場合によってはイラスト付きで)。とはいえ、個々の仏像は必ずしもその決まりに沿って作られるとはかぎりませんし、当初の制作意図とは違うかたちで仏像が使われることもよくあります。なので、たとえば「この仏像はお寺で伝統的に「hogehoge菩薩」と呼ばれて扱われてきたけど、実はもともと別の尊格として作られたのではないか」みたいなことが古い仏像では頻繁に生じます。
そういうのの具体例のひとつ:
いずれにしろ、まさにそういうことを調べるのがイコノグラフィーという分野です。
Q. アトリビュートはそれによってキャラクターや事物を区別する特徴となるものとのことでしたが、例えばあるキャラクターが他のキャラクターの衣装を身につけて扮装しているという場合に「〇〇のキャラクターが△△のキャラクターに扮している」と認識できる時、△△の衣装はアトリビュートにはならないということなのかが気になりました。
A. △△の衣装は「△△のキャラクターに扮している」の部分を表すのに使われているのではないでしょうか。それとは別に「〇〇のキャラクターが」を表す要素もないといけないと思いますが、マンガやアニメなどの物語フィクションの場合は、たんに特定のコマの画像だけではなく、前後のシーケンスやセリフなどでそれとわかる場合も多いでしょうね。ルパン3世はよく変装をしますが、変装時のビジュアルだけではルパンであるとはわからず、変装をとくシーン、他のキャラクターのセリフ、全体的な話の流れについての合理的な解釈などからそれとわかるようになっていると思います。
Q. 絵画作品の主題についての分類について、これまでなんとなく感じていたものが分類されたような気がしました。「有名絵画の本当の楽しみ方」的なくだらない(ように見えて面白いいのかもしれませんが)本は慣習的主題や内在的意味(もしくはもっと陰謀論的なこじつけ?)にフォーカスしがち、ハンカチになったりTシャツになったりする絵は形式とか自然的主題から選定されがちなのかな?と思いました(なんとなく思っただけなので偏見ですが)。
A.
形式に注目するほうが「通」で「わかっている」人でしょうね。慣習的主題や内在的意味の解釈は基本的に概念的な把握(伝統的な言い方だと「知性」の働き)によってなされるもので、学習が容易なものです(少なくともそのように言われてきました)。一方、形式や自然的主題が持つ美的性質(様式を含む)は、その把握に美的なセンス(伝統的な言い方だと「感性」や「趣味」)が必要とされるものです。伝統的な(具体的には啓蒙主義的な思想を受け継ぐ近代の)美学者や美術史家はわりと前者を軽視して後者こそ芸術/美的な領域の本質だと言ってきたのですが、パノフスキー的なイコノロジーやよりイデオロギー批判寄りの「ニュー・アートヒストリー」は、むしろそうした考えへのアンチテーゼとして提案されている側面があります。
勉強用の文献
マイナー『美術史の歴史』北原恵他訳、ブリュッケ、2003年
アーノルド『1冊でわかる美術史』鈴木杜幾子訳、岩波書店、2006年
とはいえ、そういう反〈美的〉、反〈様式論〉みたいなのもすでにけっこう古めかしい考え方になっていると思います。初回授業で紹介した"aesthetic"のリストのサイトなどはわかりやすい例ですが、現代の生きた文化のあり方を考えれば、美的性質や美的判断に注目することの重要さはむしろ高まっていると言えるでしょうね。
Q. イコノロジーが「言いっ放し」になってしまいがちというお話をされていたと思うのですが、「言いっ放し」にならないためにはテーマの選び方や論の組み立て方などで工夫するべき点などがあればお聞きしたいと思いました。
A. 「言いっ放し」になりがちなのは都合のいい材料だけをピックアップすることで何とでも言えてしまうからなのですが(1つ前のコメントにあるように陰謀論と大差ないものになりえます)、逆に言えば、まともな研究として成り立たせるためには何とでも言えるようなストーリーにならないようにできるだけ意識する必要があるということになるでしょうね。具体的な指針としては、ある作品や作品群を取り上げるとして、諸々の歴史的資料や同時代の作品群を十分に渉猟したうえで、それらとの整合性をできるだけ保ちながら当の作品/作品群の位置づけや意味合いを考えるという感じになると思います。より一般的に言えば、〈十分に合理的かつ疑り深い人を納得させるにはどういう材料をそろえる必要があるか〉を気にする必要があるという感じです(これはイコノロジーにかぎりませんが)。もちろんイコノロジー的なアプローチの意義は、歴史を大局的に眺めることによる発見法的なところにもあるので(そのように見ると新たな視点が得られる、既存のものの見方に疑問を投げかける、etc.)、細かい整合性に気にしすぎて逆にビッグピクチャーへの意識がおざなりになると台無しです。そのへんのバランスが難しいとは思います。
🐫 その他
Q. 〔タイプとトークンについて。〕中国の記号論者趙毅衡から、TypeとTokenについて理解しやすい例を出しております。彼によれば、一つの記号はTypeかTokenかはその人の認知能力とも関係あるとされております。例えば前に車が走って通すると、車に詳しい人だとその車のモデルを何々ブランドの何々モデル(Token)として認知でき、そうではない人はただの自動車(Type)としか認知できません。それと類する例は自分が飼った猫が自分にとってTokenとして認知できますが、他人ではただの猫という生き物として認知している場合が多いはずです。自分の母親も他の人から「女の人」として認知されているのも同じです。 A. 車の例は微妙に思えますね。「何々ブランドの何々モデル」は、それに属する具体的な車が複数あるならタイプとして考えられるものです(たんに「車」よりも分類の目が細かいというだけです)。そのモデルの車がひとつしかないならトークンと同一視していいかもしれませんが、その場合も、「何々モデル」自体はタイプであり、それに属する個体がトークンだという言い方をしてもいいです。猫の例は問題ないと思います。
Q. ナナイの三重説で、「描写されている」と言える三次元の対象(C)は心的イメージという形での経験もあるとされていますが、その場合の具体例がよくわかりません。いわゆるフィクションのキャラクターなどの場合とか、幻覚みたいなものを描いた作品(草間彌生の水玉のような)になるのでしょうか。
A. 「心的イメージ」というのはそういう特殊なことではなくて、単純に知っている人の顔を思い浮かべるくらいのことです。ミック・ジャガーの絵の例で言えば、絵に描かれている姿のミック・ジャガーとは別に、実際のミック・ジャガーが想起される(もし絵を見た人がミック・ジャガーを知っていれば)という話です。
Q. 統語論と意味論との切り分けを説明するための例として、文法的には間違ってはいないが意味内容が不明な文が挙げられていましたが、それぞれの理論がどこに重きを置いているのかということがよくわかりました。表面的な理解になっているかもしれませんが、詩の中には意味論的には不適切な文も多くあるのではないかと思いました。意味論的に不適切な部分を受け取り手の想像力や読解力によって適切なものに翻訳し、噛み砕いていくという作業が詩を鑑賞する過程の中に含まれているのではないかと感じました。
A. そうでしょうね。実際、"Colorless green ideas sleep furiously."に適当な文脈をつければ、ある種の詩や比喩として理解可能という議論もあります。意図的になされた破格構文が修辞技法になるのも同じ理由だと思います。