3.1 哲学者の積み木
理論構築をしたうえで、それがうまくいっているかどうかを検証して正当化するという点では、哲学は自然科学などと大きくは違わないと思われる。
では哲学ならではの特徴はどの点にあるのか。以下私見:
ナラデハ特徴の候補①:既知のことをわかりなおしたい
哲学者は、自分(そしておそらく多くの人)がすでに素朴なかたちでわかっていることを、構造化したかたちでわかりなおしたいというモチベーションで研究している。
比喩で言えば、「何かごちゃっとした複合体をばらして、整理された積み木として組み立てなおす」というイメージかもしれない。積み木のブロックになるのが個々の概念に相当し、できあがった積み木の全体が理論に相当する。
ナラデハ特徴の候補②:直観を既知のデータとして扱う
哲学者は、この〈自分が素朴にわかっていること〉が直観によってすでに与えられていると考える。
なので、観察や実験によって新たにデータを得る必要はない。
哲学者が外に出かけずに研究を済ます理由はこの点にある。
ナラデハ特徴の候補③:人と直観を共有している(と思い込んでいる)
哲学者は、〈自分がすでに素朴にわかっていること〉が、他人も(少なくとも問題となっている文脈・実践に参加している人の多くも)同じように素朴にわかっていると考える。つまり、自分が持っている直観を人も持っていると考える。
哲学者が何か具体例を持ち出して自分の言いたいことを説明しようとする場合は、たいてい読者の直観に訴えている。
哲学者は、人と直観を共有していることに謎の自信を持つ傾向にある。逆に言うと、この前提にひっかかる人は、少なくともこのタイプの哲学的な議論とは相性が悪いだろう。
先行研究やちまたの言説を持ち出すことで、直観が共有されているという事実の裏づけにすることもある。
加えて、「直観を共有している人向けの議論でしかないので、それ以外の人はごめんなさい」とか「もし直観を共有していないのであれば、それを指摘すればいい」くらいのことを思っている面もおそらくある。直観のずれは、議論の応酬の中で見えてくることも多いので、最初からあまり気にしてもしょうがないということかもしれない。
ナラデハ特徴の候補④:直観が真かどうかは問題にしない
哲学者は、〈自分がすでにわかっていること〉が事実をとらえていないかもしれないとは考えない。というより、事実問題にならない事柄に関心を持っていると言ったほうがいいかもしれない。
たとえば、歴史的事実や物理的事実は新たなデータが出ればくつがえることもあるが、哲学者が問題にしているのは、そういうタイプの事柄ではない。
哲学者が主に問題にしているのは、自分(および同じ実践に参加する人々)が何かについてどういう理解を持っているか(どう概念化しているか)やどういう経験をしているか、である。
ナラデハ特徴の候補⑤:反省と概念操作に慣れている(と自負している)
人々が物事に対してどういう理解をしているかを明らかにするという意味では人類学も同じだと言えるが、人類学者が外側からの観察によってそれを行うのに対して、哲学者は内側からの反省によってそれを行おうとする。
さらに哲学者は、自分の理解を自分で改善する(いい感じに構造化する)ことができると考えている。そこにはおそらく、反省と概念操作が得意という謎の自負がある。