第4回リアぺのQ&A
🐫 グッドマン関係
Q. 構造論を理解するためにはそれを理解するために知っておかなければならない考えがあり、更にそのために必要な知識があり、そしてそれらがすべて抽象的な議論であったため、と遡って理解しなければならないためかなり授業内容が難しく、授業録画を何度か戻して繰り返し見た。序盤でこんなに難しいのに、これからの講義について行けるのか不安になった。
A. おそらく構造説ベースで話を進める部分はそれほど多くないので、そこまでちゃんと理解しなくても大丈夫です。授業内で十分説明していなかったですが、ここまでの授業のポイントは、知覚説にせよ構造説にせよ、画像を表面とその内容に分けて考えているという点にあります。残りの授業の理解にとって重要なのは、どちらかといえば次回・次々回に予定している「描写内容の理論」の話だと思います。
Q. タイプとトークンについての概念を特に興味深く聞きましたが、いまいちよく理解できなかったので、もう一度説明していただけたらありがたいです。
Q. グッドマンの理論に関して、記号タイプと記号トークンの違いの理解があまりできませんでした。例に挙げられていたアルファベットの記号タイプとトークンの違いはなんとなく分かったのですが、“ cat ”の例での違いや区別がよく分からなかったので、もし時間があればもう一度解説をお願いしたいです。
Q. 記号タイプ/トークン、内容タイプ/トークンの区別が少し難しかった。(概念的には理解できるが具体例になった時むしろなんで?となってしまった)自分で色々調べて理解を深めておきたい。
Q. タイプとトークンの話を聞いている時に外国語の冠詞の用法を覚えるのに苦労したことを思い出しました。冠詞を持たない日本語は、タイプとトークンの区別が緩い言語なのでしょうか。
A. そうですね。日本語で内容タイプと内容トークンを言い分けることの難しさの結果として、日本語母語者にとってはそれらの区別を認識することが相対的に難しい(さらにその結果としてその区別を言い表せる別言語の理解も難しい)ということは言えるかもしれません。
Q. グッドマンの記号のシステムのところで、内容のタイプ・トークンにも記号のタイプ・トークンと同じことが言えるとありましたが、あまり理解できませんでした。内容についても記号システムと同じように、システムが存在するということでしょうか。
A. 用語が悪いのですが、「記号システム」は記号レベルのシステム(=統語論)と内容レベルのシステム(=意味論)の両方を含みます。用語の字面ではなく、概念の中身を気にするようにしてください。
Q. 記号説では、画像にも統語論が存在するのだろうが、それがどういうものなのかよく分からなかった。
Q. 言語と違い、画像は規則によって組み合わせるということがあまりないと考えられるため、統語論を画像という記号で理解できていない。
Q. グッドマンの理論が難しく理解が追い付かない部分がありました。統語論的にも意味論的にも、画像は言語(概念)との関わりの中で記号システムとして機能しているということでしょうか。
A. いえ、言語との関わりではないです。画像は、言語に対して適用されるのとは異なる種類の独特の記号システム(=記号と内容の分類の仕方)の中で記号としての働き(=何かを表象するという働き)を持つということです。
Q. 記号システムの成立は何によるものなのか。記号を組織化するもの、意味を組織化するものが慣習であるとすれば、そのような慣習は記号システムの外にあるのか。
Q. ネルソン・グッドマンの記号システムの論について、ここにおいて記号が役割を果たすためには情報の受け取り手がそのシステムを理解している必要があるという認識で合っているでしょうか。
A. その通りです。ただそこでの「理解」は必ずしも自覚的である必要はありません。母国語を話す場合にその記号システムについて自覚していないのと同様に、かなり自然なもの(意識にのぼらないもの)になっているケースは多いです。グッドマンは「慣習(convention)」や「実践(practice)」という言い方をしますが、それがどれだけ明確に定まっているかやどれだけ強制力があるかはケースによってさまざまだという考え方をしていると思います。どちらにせよ、ラディカルな相対主義者なので、社会・人々にすべて依存します。
Q. グッドマンは、画像は慣習・取り決めの結果として機能するという立場を一貫して主張していて、その点が批判の的となったようだが、画像を記号の一種と捉えるならば、言語も画像が持つそのような点を共有しているということになる。とすれば、「cat」のような一義的な単語はネコという動物を指す以外にないが、多義的な単語なら文脈で判断するしかない。このような文脈による判断も、グッドマンが述べる「慣習・取り決め」と考えてよいのだろうか。
A. 言語学/言語哲学において、言葉の文字通りの意味を扱う分野を「意味論」と言いますが、文脈にもとづいた意味理解やコミュニケーションは「語用論」という分野で扱われるものです。語用論上の問題は、慣習・取り決めというよりは、慣習・取り決めを背景にした合理性や推論の観点から説明されることが多いです(一般化すると、意味の伝達を人間の行為の理解として考えるということです)。グッドマンの記号説は、書き方的には意味論の領域にかぎっているように見えますが、実際のところは語用論的な範囲も含めて考えてそうなところがあります。
Q. ある画像を見た時に想起されるもの(内容と我々が感じるもの)が人によって異なる場合においても、その画像は記号として成り立つのだろうか。
A. 解釈やそれがもとづく経験が人それぞれでありえるのはあらゆる記号について言えることです。なので、さまざまな解釈のうちのどれが正当化されるのか、その正当化の根拠はどのようにして与えられるのか、という考え方をしたほうがいいでしょう(前回のウォルハイムにおける「正しさの基準」に近い話です)。その点でたとえば言語と画像に一般に差があるのかないのか(あるとしてどの程度の差なのか)はひとまずわかりません。
Q. 「分節化」という言葉が気になったのですが、説明の中で行くと様々な種類の猫を「猫」というカテゴリに分けることを分節化と言っているという解釈で良いでしょうか。また、楽譜の例でいくとドとド#ならドに近い音を「ド」と分節化しているのでその間の音はない、という解釈で合っていますか?
A. 猫のほうはちょっと微妙な書き方に見えますが、ドのほうはおおむねその理解で問題ないと思います。「分節化」という語の意味は、単純に「連続体のどこかに区切り/刻みを入れて、複数のまとまりに分ける」くらいの意味です。虹の色数(文化によって違う)は、分節化の例としてよく出されますね。
Q. 楽譜が音階や拍子など、楽譜そのものとは別〔…〕に既に規定されているものは、「ド」が指定されている箇所で「レ」を出すことはない、というレベルで誤差なく指示できる一方、「アレグロ」「フォルテッシモ」などは演奏者のさじ加減による部分が大きいというのが面白い性質と感じました。これがDTM等で製作されたものであれば楽曲の諸要素が全て数値化可能であり、楽器の個体差や演奏者の身体的能力等と無関係に、一応は誰でも完全に再現できるようになるのではないかと思ったのですが、こうしたDTM的記号タイプ(?)はグッドマンや他の構造説の理論においてはどのように説明されうるのでしょうか。
A. デジタルデータ化された音楽一般に言えることかと思います。グッドマン的には、記譜法であることは変わりないがその細かさが極度に増したもの、と考えるでしょうね。実際、グッドマンはデジタルに分節化された情報(コンピュータ上のものにかぎりません)のことも想定しています。ただ、けっこう微妙なところはあって、たとえばグッドマンの説によると、現代のデジタル画像の大半(ラスター形式のもの)はすべて記譜法と同種の記号システムに沿ったものになってしまいますが、とは言ってもそれらは機能的にはアナログの絵や写真と同じ側面を少なからず持つわけで、その共通点をどう説明するかという要請にグッドマンは応えられません。このへんはカルヴィッキを含めた最近の論者がけっこう論じている話です。
Q. 構造説の理解は少し難しかった。例えば猫を表す「ネコ」という日本語を「cat」という英語に翻訳するときは、「ネコ」が記号、「cat」が内容になるのか、あるいは翻訳の際には表象関係が成り立っておらず、単に記号システム内での記号の互換が行われている、ということだろうかなどと考えて混乱してしまった。
A. 翻訳の本質は、なるべく同じ内容を維持したまま別の言語(別の記号システム)で言い換えるということです。なので、「ネコ」と"cat"が表象関係にあるのではなく、日本語における「ネコ」が表す内容(便宜上"C"と呼びます)を維持するために「ネコ」と"cat"(=英語においてCを表す記号)を入れ替えるという関係にあります。つまり、記号×2と内容×1の三項関係です。
余談:"C"という語を導入したのは、英語や日本語が表す内容についての説明で「ネコ」や"cat"を使ってしまうと無駄な混乱が生じるからです。ある記号システムのあり方を説明するときに当の記号システムに属する語彙を使うとわかりづらくなってしまうというのはあるあるですが、そういう場合は"C"のようなメタ言語を一時的に導入すると便利です(説明されるほうは「対象言語」と言います)。
Q. 記号システムの議論が何を言おうとしているのか大まかには分かったような気がします。ただ、日常言語の記号システムが図表や画像と同じ地平で「意味論的に稠密である」といわれるのには違和感を覚えました。言語と画像では記号や内容の分類のされ方がかなり異なると思ったからです(なんというか感覚的に脳の使う部分が違う気がします)。そういった違和は捨象したうえでの議論なのでしょうか。
A.
前提として、記号の分類のレベル(統語論)では、言語と画像・図表は異なるというのがグッドマンの見解です。
一方、内容の分類のレベル(意味論)について、グッドマンは言語と画像・図表が同様だと言っているわけですが、その見解に対する違和感はもっともだと思います。ただ、意味論的分節化/稠密という概念で論じられているのは、もっぱら当の記号システムによって表現できるものの「細かさ」の話であって、その幅広さや種類の話はされていません。たとえば、言語は少なくとも画像に比べれば細やかな感情を表すのに向いているでしょうし、画像は言語よりも細やかな視覚的特徴を表すのに向いているでしょう。水銀温度計は温度については稠密に表せますが、温度以外の何も表せません。なので、幅の広さや種類の点で、言語と画像・図表は異なる傾向にあるということは言っていいと思いますし、グッドマンもそれは認めると思います。
Q. 画像は本当に意味論的に稠密であると言えるのでしょうか。例えば猫とも犬とも判別しづらい絵があるとして、私だったらそうした絵を鑑賞する際、猫と犬の間にある曖昧なグラデーションを考えるより、猫か犬かどちらかのカテゴリに当てはめようとすると思います。このとき画像という記号システムはむしろ意味論的に分節化されている気がします。また、慣習によって世界の分節の仕方は異なっている以上、画像が(特に)意味論的に稠密であるというのは少し一義的すぎるのではないかと感じました。
A.
前半のコメントについて。最終的に〈猫〉か〈犬〉のどちらかとして解釈するというのはそうでしょうが、その場合も〈猫のような犬〉か〈犬のような猫〉になるでしょうし、さらには言語では記述できないようなもっと細かい属性を含めた特徴が普通は絵の内容に含まれるでしょう。また、「意味論的に稠密」というのは当の記号システムに属する表現が表せる内容の可能性が稠密という話なので、個別の画像の内容が密であるか粗いかという話ではありません。
後半のコメントについて。こちらは難しいですね。おっしゃることのポイントはよくわかります。とはいえ、グッドマン的には、「2つの記号システムがどちらも意味論的に稠密であるからと言って、それらの表現能力が同じであるということにはならない」と主張すると思います。そう言える理由は、1つまえの回答と同様です。
Q. 画像と言語がどちらも現実という内容を表象した記号であるという点で共通しているのは面白いと思った。なぜなら、画像を認識するとはどういうことかを考えるときに言語の場合はどうかを考えることが役立つであろうし、その逆の類推も可能であるだろうからだ。言語によって類推すると、描写とは、世界を画材によって切り出し、認識の仕方を表現する方法ともいえるのではないだろうか。言語がその使い手の認識のあり方を映し出すように、画像もまたその製作者あるいは撮影者の世界認識を観る者に伝えてくれているのかもしれないと考えた。
A. グッドマンの『世界制作の方法』はわりとそれに近い話ですね。
Q. 個人的にグッドマンの理論は好きなのですが、(ウォルハイムと対照的に)描写と知覚の理論との結びつきがあまりにも希薄である点は問題のような気がします。「作品を見る経験が日常の知覚にも影響を与える」というようなことをグッドマンはよく言いますが(LA, 邦訳297ページなど)、描写の理論を見ても「描写システム内の記号と対象の話」で論が閉じてしまい、結局どのような構造で知覚とつながっているのか、判然としない部分を感じます。
A. グッドマンが想定しているのは、ウォルハイム的な意味での「知覚」というよりは「認識」に近いものだと思います。グッドマンが言う「認識」は、「物を分類すること」とおそらくほぼイコールです。そして「分類」とは「ラベルを付けること」すなわち「記号によって表すこと」なので、記号システムの受け入れ・組み換え・創造などが認識に影響を与えるという理屈だと思います。簡単に言えば、記号システムは「ものの見かた」でもあるということです。『世界制作の方法』のほうが、そういう考えがよりわかりやすく示されているかもしれません。
🐫 その他
Q. 類似説について一般的に指摘される難点のなかで、似顔絵は二次元の表面がモデルの顔に似ている訳ではない、という話がありましたが、似顔絵を見て私たちが三次元的な顔を思い浮かべ、それをモデルの顔と比べて「似ている」と判断するのだという指摘、という認識で正しいでしょうか。
A. その通りです。
Q. 素朴な類似説の難点としてあげられている「表されている描写と実際の人が似ている」というのは、例えばバイデン大統領を描いた絵がそこまで似ていなくても、スーツや髪型や髪色や一緒に描かれるアメリカ国旗などのモチーフからわかるみたいなことなのでしょうか?
A. ひとつまえのコメントの通りです。「描写」ではなく「描写内容」です。スーツetc.によってわかるということではありません。
Q. 先日大塚国際美術館に行ってきました。入った瞬間に現れた最後の審判に感動を覚え、他にも教科書で見たことがあるような絵画を見ることができて感動しました。そこで、うちにみるという話を思い出して近づいて見てみましたが、やはり本物ではない分表面のでこぼこなどはなく、あくまでも複製品といった感じでした。しかし、もしそれらの凹凸までもが再現されていれば、それは本物と変わらないのではないでしょうか。私はそこに複製品があると知って行きましたが、本物が展示されてると思って行ったらそれは本物だと知覚されるわけで、そうなると本物の偽物の違いが難しいと思いました。
A. この授業では扱いませんが、贋作論は分析美学の中でそれなりに議論の蓄積があります。質的に完全に同一のもの(少なくとも人間の目には現実的に見分け不可能なもの)を作った場合、それが同じ絵画作品と言えるのか否かという論点はよく出されます(否定派が主流だと思います)。
Q. ナナイの〈うちに見る〉説に関して、認知科学の面からの説明が為されていたのが印象的でした。哲学や美学の領域で、自然科学的な根拠が加えられるのはよくあることなのでしょうか。
A. 必須ではないですが、それなりにありますね。自然科学にかぎらず社会科学的な知見を持ち出すこともあります。
Q. 〔共感覚について。〕特定の文字・絵を見たり音を聞いたりすると、対応した色を思い浮かべるという奴である。自分は類似説に関する件で、この特殊な事例はどこに当てはまるのだろうかと考えた。自分自身共感覚を持っているわけではないので聞いた話になる。まず、似た文字だからと言って近い色を示すわけではないという。このことからイコンではないように思う。また、客観的な因果関係を示すことも難しそうであり、インデックスも当てはまらないかもしれない。そして共感覚における関連性に公的な取り決めがあるかと言われると、かなり個人差があるという話を聞くので、シンボルと言えるのかも分からない。
①共感覚的なものの見方を今日紹介した枠組みに分類できるのか?
②そもそも共感覚的なものの見方は、今の話題とは別件なのか?
A.
①できるかできないかはわかりませんが、とくにする必要がないと思います。
②別件でしょうね。
以下説明:
共感覚は、たんに特定の刺激によって異なるモダリティの感覚が共起する(かつそのうちの片方は標準的な感覚ではない)くらいの話として理解しています。そのかぎりでは類似関係でも表象関係でもないので、授業の話題にはとくに関わらないです(仮に共感覚を利用した記号があれば話は別ですが、標準的な感覚ではない以上、記号システムとして慣習化されることはほとんどなさそうです)。
ちなみに、共感覚であれなんであれ、刺激と一人称的経験の関係自体は普通に考えれば因果関係ですが、だからと言ってインデックスだということにはなりません(インデックスは因果関係を利用した記号です)。別の言い方をすれば、あるものとあるものの関係が因果関係であるということを言うために、記号についての理論を持ち出す必要はないということです。
Q. 共感覚は音に色を感じるという話を聞いたことがありますが、それは複数システムに渡る記号の理解が行われているということでしょうか?
A. 生理的な反応の話は、記号説が問題にしている記号システムの話とは別物です。「記号」を「刺激」に言い換えれば、知覚的反応のシステムとしてはそうかもしれません。
Q. 文字情報の場合も「文字」の情報を「画像」に変換して再認識を行うのでしょうか。
A. 知覚上は文字もゲシュタルトとして把握することにはなると思います。ただ記号説にゲシュタルトという考え方はないですし、画像の話とも関係ありません。再認説のことを想定されているのであれば、文字についてもそれ特有の再認能力があるかもしれませんが、やはり画像の話とは基本的に関係ありません(関係があるとすれば、文字を描写内容として持つ絵(文字を描いた絵)を把握するケースです)。
Q. パースの三分法のインデックスについて、因果関係が記号になるという考え方は興味深いと思いました。たとえば煙や足跡などは因果関係が分かりやすいですが、夕焼けが次の日の晴天を示す、というような遠い(?)因果関係は、インデックスに含まれるのかどうか気になりました。
A. 未来予測に使える記号もインデックスに含めると思います。発熱が風邪を示唆するなどもインデックスです(「徴候(symptom)」と言います)。あとは、直接の因果関係ではないが共通の原因を持つ(なので共起する確率が高い)おかげで互いに記号として機能するケースもインデックスです。
Q. ここで、〈記号「説」〉とされていますが、社会科学や人文科学で言うところの〈記号「論」〉のフレームが分析美学に応用された、と考えて問題ないでしょうか?
A. 「社会科学や人文科学で言うところの〈記号「論」〉のフレーム」で何を想定されているかによります。なぜか現在の日本の大学教育では「記号論/記号学」といえばソシュールに端を発してレヴィ=ストロース経由でフランスの構造主義およびポスト構造主義に流れ込んだものを主に教える印象がありますが(その理由は単純に1980年代に流行っていたので年長の研究者の共通知識になっているというだけだと思いますが)、記号論自体は古代からあるものですし、その長い歴史の中でいろいろな流派があるものです。グッドマンが同時代(1960年代)の西欧の記号論をどこまで把握していたかはわかりませんが(最近流行ってるよね的なことは一応書いています)、言葉づかいからして、パース → モリスの系統か、カッシーラー → ランガーの系統を主に参照していると思います。チェコやソ連を中心とした東欧にもかなりリッチな記号論の文脈がありますが、それは参照していないでしょうね。
Q. 「記号」の英単語についてですが、signとsymbolの2つの英単語があり、特にsymbolは英語では「記号」と「象徴」という2つの意味があり、〔…〕ソシュールの方がこの点において冷静で、「記号の恣意性(Arbitrariness)を考えた上、symbolを言葉の記号を指すことが妥当ではないと判断する」と述べました。なぜかというと、symbolの「象徴」の方も記号の一種ですが、あくまでも恣意性のない、有契性(動機づけ、Motivation)のある特殊の記号にすぎないからです。それを「記号」として使うと英語では「象徴」と混同しやすいです。パースはsymbolを(icon/indexと区別を付けるために)「規約のある記号」と定義したことで英語のsymbolの意味にさらなる混乱を招き込んだと思います。
A.
多少調べていただければわかると思いますが、"symbol"が〈有契的な記号〉を意味するのに使われるのは、限られた文脈のみです(ソシュールもおそらくドイツ観念論の用法を引いています)。パースの用法とは無関係に、英語でも英語以外の言語でも、"symbol"が〈規約的な記号〉(あるいはそれを含む〈記号一般〉)を指すのに使われてきた歴史はそれなりにあります。
言葉づかいがややこしいのはおっしゃる通りですが、用語法が論者や理論によってばらばらなのはこの手の話題にはつきものなので、それで毎度混乱しているようではテキストを読むのが大変でしょうね。むしろ、〈同じ言葉だからと言って同じ内容を意味するとはかぎらない〉という前提をつねに持って、文脈別・著者別・テキスト別に(さらには段落別や単文別に)注意深く語の意味を考えながら文章を読む習慣を身につけることのほうが大事だと思います。
余談ですが、グッドマンの"symbol"の用法は、カッシーラーとかスザンヌ・ランガーあたりから受け継いでいるんじゃないかなと思います。ちゃんと調べたわけではないですが。
Q. 私にはぱっと見たところ「でつ」が手塚治虫の「おむかえでごんす」のキャラに見えます。