第3回リアぺのQ&A
🙇 すべての質問を取り上げているわけではありません。
1. 〈うちに見る〉説に関するQ&A
🐪 1.1 描写内容の抽象度/具体度の問題
Q. 例えばKさんが「長毛種の猫」が見えるように意図して絵を描いたとして、それが「餅」にしか見えなかったとしたら、その絵の描写内容は定まらないということになるはずですが、それが「(長毛種かどうかは関係なく)猫」にしか見えなかったとしたらその絵の描写内容はどうなるのでしょうか。この場合、意図の内、猫という部分は伝わっており100%意図から外れたものとはなっていないように思われますが、長毛種という部分が抜け落ちてしまっているため、描写内容は定まらない・作者の意図は達成されていないということになるのでしょうか。
A. クリティカルな指摘だと思います。どうなるんでしょうね。普通に考えれば、作者の意図が部分的に達成されている(長毛種の猫を描くのには失敗したが、猫を描くのには成功した)と考えて、〈猫が描かれている〉とは言えるが〈長毛種の猫が描かれている〉とは言えない、ということになりそうです。
Q. Tさんが、表面のうちに〈(単なる)イヌ〉が見えるようにするという意図をもって、絵Pを描いた。AさんがPを見ると、その表面のうちに〈ある特定の犬種(例えばチワワ)〉が見える。「イヌ」は「チワワ」を内包しているが、このようにTさんがどのような犬種かを意図していない場合、どうなりますか。
Q. 〈うちに見る〉説における正しさの基準について、作者の意図が理解されるかどうかという部分は、単純な正誤ではなく様々な程度があるのではないかと考えました。例えば、作者が「リアルなうさぎを描こう」と思って描いたものが見る人に「下手だがかわいらしい、うさぎの絵(へたうまな絵)である」と捉えられた場合は作者の意図が達成されたことになる(「うさぎ」だということは伝わった)のか、十分達成されたとはいえないのかが気になりました。(https://news.kodansha.co.jp/7451 徳川家光の例)
A. 上記と同じ処理になると思いますが、微妙な例はたくさんあるでしょうね。
Q. 製作者が意図したものに表情や色が含まれていたらどうなるのか?
Q. 例えば、ある一枚の肖像画をAとBの2名が見て、Aさんは笑っている顔だと言い、Bさんは泣いている顔だと言った。作者の意図が一つだとすれば、AさんかBさんの解釈の少なくとも一方は誤りだがそれは「正しくない」とまで言えるのだろうか。画像が表す内容について単に「顔」でよいのかそれとも「〜の顔」というレベルまで一致していなければ「うちに見る」ことに失敗していると言えるのだろうか。
Q. 描き手が「微笑を浮かべる女性」を意図して絵を描き、それを見た人が「冷笑を浮かべる女性」と受け取ったとき、この絵の描写内容はどのようになるのだろうかと思った。鑑賞者の答えに評価をつけるならば、今回は△、つまり後半の「女性」という部分だけ正答し、女性の表情は描き手の意図が達成されていないことになるだろう。この場合、絵の描写内容は「定まらない」となるのか(「微笑を浮かべる女性」をひとまとまりとして考えた場合の全否定)、それとも「女性」となるのかが疑問に思った。
A.
表情について。絵における表情の描写や感情表出については微妙な問題がいろいろありますが(下記文献参照)、ひとまず上記の〈猫か長毛種の猫か〉という問題とある程度は同様に考えられると思います(描写内容の確定度にケースごとのバリエーションがある)。提示されている例については、〈女性〉というよりも〈笑みをたたえた女性〉や〈口角が上がっている女性〉くらいの具体度は最低限あると言えるでしょう。
文献:清塚邦彦「絵画における感情の表現について」『山形大学人文学部研究年報』4号、2007年 http://id.nii.ac.jp/1348/00001304/
色について。白黒の絵などを想定されていると推測しますが、その場合、〈描き手は、描かれた物の明度は確定的だが、色相や彩度は不確定であることを意図している〉くらいのことは言えるでしょうね。ただ、たとえそのように意図されていたとしても、なぜ色相や彩度が不確定であるという描写内容になるのかを説明するのは、ウォルハイムの説だとちょっと難しいかもしれません(可能的に〈うちに見える〉内容としては色相も彩度も確定しているはずなので)。そういうケースについては、今回見る構造説のほうがおそらく説明しやすいです。
Q. 作者がこの世界に存在しないもの(この世界に対応するものが存在しないもの)を描く意図があった場合、それは「可能的知覚」の内容になるのでしょうか?たとえば『BLAME!』の「シャキサク」は①「大きなカロリーメイトみたいな見た目」をしていますが、カロリーメイトではありません。その後、主人公霧亥が口に運ぶシーンを見て初めて②「何らかの食べ物」だとわかります。そして作中に描かれていない設定を確認すると「シャキサク」は本来食べ物ではなく③「固形のグリス」であるとわかります。とりあえず内容になりそうなものを3つ挙げましたが、この内「可能的知覚」になりそうなものは①だけであるように思えます。(主人公が「シャキサク」を食べるシーンの前の時点の描写の話をしています。)
A. 鑑賞者を理想化すれば(たとえば『BLAME!』およびそれが描く虚構世界についての十全なリテラシーを備えている鑑賞者を想定すれば)、可能的知覚には①~③がすべて含まれると言える気がします。描写されるものが非実在物や虚構的存在者であることは、おそらくこの点では大きな問題にはならないです(その画像を解釈するのに要求されるリテラシーが相対的に高いくらいは言えるかもしれませんが)。
🐪 1.2 抽象画をどう扱うか問題
Q. キュビズムやモダンアートは、ウォルハイムの〈うちに見る〉説において、正しいといえないということなのだろうか。このようなジャンルにおいては、書き手の意図が鑑賞者に正しく伝わることは非常に難しいと思う。
Q. 抽象画などの場合においては今回の授業で取り上げられたような議論は当てはまらないのでしょうか?
A. 「抽象画」という語が少なくとも3つの意味を持つので、それぞれ分けて考えたほうがいいですね。
① 一切の表象内容持たない絵
例:Barnett Newman. Vir Heroicus Sublimis. 1950-51 | MoMA
そもそも描写をしていないので、この授業で言う意味での画像の例ではないです。なので対象外です。
② 奥行のある空間は描かれているが、具体的に何と言えるような内容を持っていない絵
例:‘Pompeii’, Hans Hofmann, 1959 | Tate
〈うちに見る〉がかなり言いづらいのでウォルハイムの難点であるように思えますが、ウォルハイム自身はこういう事例も明らかに念頭に置いています。このタイプの画像をどう考えるかについては、第5~6回の授業で取り上げる予定です。
③ 形態の大胆な抽象化(単純化、歪曲、etc.)を行う絵
例:Nocturne in Black and Gold, the Falling Rocket | Detroit Institute of Arts Museum
このタイプの画像についても第5~6回で取り上げる予定です。ウォルハイムは、こういう例は〈うちに見る〉概念で問題なく説明できると主張しています。キュビズムもこのタイプとして考えられるでしょうね。
🐪 1.3 描写内容よりも高次の内容について
Q. たとえば、日本人にはまったく知られていないアメリカのキャラクターがいたとして、そのイラストを見たときに、それの固有名は分からないけれども、その特徴を言葉で説明することはできるかと思います。そしてアメリカ人にその特徴を説明して「それは○○だね」と言われてあとからそれが何だったのか分かったというような場合、はたしてその日本人は最初から○○を知覚していたと言えるのでしょうか? もし言えない場合、何を知覚していたということになるのでしょうか?
A. 描かれているのが何のキャラクターなのか(誰なのか)は、描写内容よりも高次のレベルの内容と考えたほうがいいかもしれません。美術史で言えば、図像学的(iconographical)な内容に相当します。それも含めた絵の内容の複層性については、第5~6回にまた少し説明します。
Q. 描き手(A)が特定の地域や文化圏でのみ共有されている信仰(例えば民間信仰とかでしょうか)のシンボルとなる図形を意図して描き込んだ場合、その文化圏に属さない鑑賞者(B)にはその図形は信仰のシンボルとしては認知されない。Aが描いたシンボルがBの属する文化圏では全く異なるものを示していた場合でも、「作者の意図」=信仰のシンボルということになる。という認識でいいのでしょうか。それとも単なる形である図形は信仰などとは無関係にただ図形であり、正しい描写内容=図形でしかないことになるのでしょうか。
A. これも象徴的内容と言って、図像学的内容と同じく慣習的な取り決めのもとではじめて解釈が可能になるケースなので、いま問題にしている描写内容の話とはひとまず別です。
鳩の絵 → 鳩 → 平和
みたいな表象関係がある場合、1番目の矢印(鳩の絵が鳩を表す)はdepictionですが、2番目の矢印(鳩が平和を表す)はdepictionでなくsymbolismです。
Q. 風刺画やオマージュといった、画像が「実際に描かれているもの」ではないものを認識することを求めている(そして一定数の人がそれを認識できる前提で描かれている)場合も、問題になるのでしょうか。
A. 風刺やオマージュ(暗示引用)としての内容は、描写内容のレベルではなく、描写内容を前提としつつその使い方に注目して(語用論的に)解釈することで引き出されるレベルの内容です。そうした語用論的な内容は芸術作品の評価に大きく関わりうるものなので美学的には重要ですが、この授業ではおそらく取り上げないと思います。もうちょっと日常的なレベルでの画像使用とその解釈の話は、LINEスタンプの回などで取り上げる予定です。
Q. 「うちに見る」では説明できない事象として画像が持つストーリー性や背景があげられると思います。例えば、Kevin Carterの「ハゲワシと少女」という写真はアフリカで困窮する少女を狙うハゲワシの写真であると知覚できます。しかし、この写真を撮る前に少女を助けるべきなのではないかという倫理的問題の関する議論をこの写真は巻き起こしました。それはこの写真を撮った状況や背景を写真から感じたからこそ起きたものであり、「うちに見る」だけでは説明しえないものだと考えました。
A. これも文脈込みの解釈なので描写内容の話ではない(語用論レベルの話である)と言ってしまってもいいかもしれませんが、けっこう微妙ではあります。絵が描くのは瞬間なのか、前後も含めた事態なのか、というのは「物語(narrative)」という言い方でたまに論じられます(絵は単独で物語になりえるのかという論点)。定説などはとくにないと思います。
参考:Bence Nanay, Narrative Pictures - PhilPapers
Q. 政治家を豚として描いた風刺画のような例(グッドマンの〈トシテ再現〉みたいなもの)は、〈うちに見る〉説で説明が難しいのではないかと思いました(うちに見るだけでは不十分だから)。特に、元々「豚の写実的な絵」を「風刺画」として使うような、二次的使用の場合、「正しさの基準」とも相まって、ややこしくなりそうな気がします。(ウォルハイムをしっかり知らないので、何か言っていたら教えていただきたいです。)
A. 使用の話は〈写真を絵として使う〉みたいな例は『芸術とその対象』邦訳p. 214で挙げられていますが、それ以外でちゃんと議論しているところは知りません。トシテ描写のようなケースの処理が少なくともウォルハイムの〈うちに見る〉説では難しいのはおっしゃるとおりです(トシテ描写の内容がどこまで描写内容なのかはかなり微妙な話ですが)。
🐪 1.4 写真の描写内容について
Q. ウォルハイムの説明では手描きの絵と写真は「正しさの基準」という点で異なるものとして扱われていましたが、そうなるとこの二者を含む「画像」という概念が統一性に欠けてしまうのではないかと思いました。
Q. 〈うちに見る〉説の写真における正しさの基準のなかに〈うちに見る〉知覚の要素がなく、手描きの絵の正しさの基準とあまりに異なるので同じ「画像」として論じることに無理がでてきているように感じました。
A.
その通りですね。なので手描きの絵と写真を本質的に別物と考える立場もありえます。写真の回に紹介する予定のケンダル・ウォルトンなどはその立場です。
ちなみに、ウォルハイム的には、写真の内容の正しさの基準に〈うちに見る〉が含まれない(あるいは含まれるかどうかを書いていない)だけで、写真自体は、ロールシャッハテストや壁のしみと同じく、〈うちに見る〉を引き起こす事物の一種ではあります。
なので、ウォルハイムの脳内マップはこうなっていると思います:
〈うちに見る〉を引き起こす事物
正しさの基準があるもの(=画像)
正しさの基準が意図とその達成で決まるもの(=手描きの絵)
正しさの基準が因果で決まるもの(=写真)
正しさの基準がないもの
人工物(ロールシャッハテストなど)
自然物(壁のしみ、月の模様など)
Q. 写真において撮影者の意図は正しさの基準に関係がないと言い切るのもどこか釈然としないところがありました。カメラの設定やどこでどの瞬間撮るか等の撮影者の判断も描写内容に全く無関係なのでしょうか。
Q. 正しさの基準におけるカメラの話において、意図性が介在しないとのことでしたが、それはあくまで一般的な写真撮影の行為を指しているのであって、望遠レンズの極端な使用や、ISO感度とシャッタースピードの調整による明暗の変更といった技術は、ここでは考慮しない、あるいは別の問題ということになるのでしょうか。
A. ウォルハイム的には、「撮影者は何を被写体にするか(+どのような撮影環境・設定にするか)をコントロールしているだけであって、いったん撮影が行われれば、当の写真プリントの描写内容は撮影者の意図とは関係なく被写体そのものである」という答え方になると思います。ただデジタル写真はもちろんフィルム写真でも、撮影から最終的なプリントができあがるまでに現像や加工などいろいろなプロセスがあるわけで、それらをすべて機械的なプロセスである(人間が介在しない)と考えるのは難しいでしょうね。
Q. 手描きの絵については納得できましたが、写真については疑問が残りました。例えば、「逃げ水」などの(それこそイリュージョンであるのですが)自然現象による錯覚が写り込んでいる写真はどのように考えるべきか、考えています。「本物の被写体」は存在しないわけですから、この事例自体、「絵」とは異なる「写真」の性質を表しているのではないか? と思ってみたりもしています。
A. カメラのレンズが置かれた位置から見える光景がほぼそのまま写っていると考えれば、「逃げ水が見える光景」も写っていると考えられるんじゃないでしょうか。この「逃げ水」を何か実体のように考えてしまうと不自然な説明になるとは思います(心霊写真の多くはその取り違えを利用したものだと思います)。
Q. 撮影者の意図関係なく本物の被写体がその写真の描写内容というのは、写真に対する視野を狭めている気がする。例えとして写真ではなく絵画を取り上げるのは恐縮だが、有名な「イカロスの墜落のある風景」は一見するとただの海近くの平凡な日常を切り取ったものにしか見えない。だがそこで重要なのは画面に小さく描かれている墜落して海で溺れているイカロスのはずだ。この絵画が写真であると仮定して、「この写真の描写内容は、海近くの街の農夫や海の風景なのだ」というのは些かつまらないものだと思う。撮影者の意図を考慮しないことは、写真という対象を矮小化してしまうのではないか。
A. ブリューゲルの絵のように小さくであれ見える(写っている)なら、写真であっても描写内容になると考えるのが普通じゃないでしょうか。むしろ、撮影者が意図していないものがたまたま小さく写り込んでいたケースを説明するには、因果的な説明のほうが適切なように思えます。
Q. ウォルハイムの定める写真の正しさの基準に違和感を覚えましたが、それは当時と現代における写真の位置付けの違いにあるのではないかと思いました。ウォルハイムが活躍した時期の写真は、その時のありのままの状況を切り取り記録すると言った意味合いが強いように思いますが、現代においては鑑賞対象としての意味合いも大きくなり、構図や現像に撮影者の意図が大きく関与しているということを考えると、必ずしも正しさが因果的に決まるとは言えないと感じました。
Q. ウォルハイムの〈うちに見る〉における正しさの基準について。写真における正しさの基準撮影者の意図は孕まない部分が納得し切れなかったです。作品性を持つ写真の場合でも、個々では意図がないと見なすのでしょうか?
A. 芸術写真はまたちょっと別の話になりますが(描写内容がどう決まるかは、写真や絵の芸術的価値や作品としての解釈の話とは基本的に独立なので)、ウォルハイムによる写真理解が現代とは多少違うというのはそうでしょうね。
写真の認識論的価値・芸術的価値をめぐる美学上の議論についてのまとめ記事:
写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7
写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その2) - #EBF6F7
🐪 1.5 フィクショナルキャラクターの画像について
Q. 気になったのは、もともと実世界に存在しないキャラクターの描写をどう捉えるか、ということです。つまり、一般の読者がはじめてドラえもんの絵を見たとき、それがドラえもんであると理解する人はいないはずです。ということは作者の意図はドラえもんであっても「可能的知覚」にはドラえもんは含まれず、その描写内容は定まらないといえると思います。ではどのタイミングで「可能的知覚」に含まれて描写内容として定まるのか、という議論が必要になると思いました。
A. ご指摘の点はフィクション特有の事情でしょうね。一般に、フィクションの表現(小説であれマンガであれ)は、何かを表すと同時に作り出す(そこで記述あるいは描写されているものを当の虚構世界上の存在者や出来事として導入する)ということをしばしば行います。ドラえもんの本当の初出のコマやイラストレーションは、そのようなものとして考えられるかもしれません。一方で、2コマめ以降のドラえもんはすでに可能的知覚に入っていると言えるとは思います。ただ、ウォルハイムはそこまで考えていないと思います。
2. 意図主義・正しさの基準に関するQ&A
🐪 2.1 描写内容と意図主義
Q. 正しさの基準のところで「描写内容にならない」という表現があったが、それは作者にとっては「長毛種の猫」で、観察者にとっては「餅」のように、「人によって描写内容が異なる」ではダメなのか。
A. 「人によって〈うちに見える〉内容が異なる」であれば問題ありません(月の模様と同じです)。ただ、ここで言う描写内容は、客観的に(あるいは間主観的に)受け入れるべきものとしての絵の内容のことなので、それが人によって違うというのはまずいというのが常識的な考え方ではないでしょうか。具体的な問題としては、たとえば作品の批評、歴史的な位置づけ、美術史研究などが根本的に成り立たなくなるかもしれません(描写内容の共有を前提とする議論が多いので)。
Q. 正しさの基準がある程度あるとされる描写内容においては、可能的知覚が重んじられるとウォルハイムは主張した。描いた人の意図をすべてくみ取れるだけの知識や技術、信念を持ち得る人が知覚できる意図が正しい基準となるということだと理解した。講義では正しさの基準の判断の困難さを挙げる例として、子どもの絵が参考にされた。しかし、可能的知覚は正しさの基準を説明するうえでは良い基準だと思う。例えば、高名な画家による絵も描写内容が伝わりにくい例の一つだ。特に抽象画に分類される絵は、はっきりした内容物が描かれることは少なく、観者の過半数が描写内容を読み取れないことが起きる可能性がある。しかし、可能的知覚を用いれば、その画像が正しさの基準をもった描写内容を持ちうる説明が十分にできる。
A. 一定の説明力があるのは同意します。
Q. 作者の意図とは違う〈うちに見る〉知覚がなされた場合に、その場合は正しさの基準を持たないから画像ではないというのは少し無理があるように思われます。作者が犬を描いたとして、その絵が誰がどう見ても猫と答えるものであった場合、それは猫にしか見えない犬の画像であり、すなわち作者の意図が全く伝わっていなくともそれは画像になりうると思います。
Q. 「意図」の役割が曖昧な(というか現実の作者の意図はいらない)ように思えることです。「バイデンを意図したトランプに見える絵」の例がありましたが、どう考えてもトランプの絵と見るのが正しい気がしました。ウォルハイム自身、論文「〈として見ること〉〜」の中で「スキルのある鑑賞者が作者の意図を推測してもいいよね」と述べていますが(『芸術とその対象』、p. 213)それなら理想的鑑賞者による基準だけでいいのでは?と思ってしまいます。(可能的知覚が複数ある場合の最終決定権を持つものとして意図があるのだと思いますが…)
A. ウォルハイムの立場をそう見なせるかどうかはともかく、意図主義でも仮説的意図主義をとるオプションはあるので、そういう方向で処理することはできるでしょうね。
ちなみにp. 213の記述は、「見る側が推測した作者の意図が正しさの基準になることがある」とは言ってないと思います。おそらく「見る人が正しい内容を〈うちに見る〉ために(そしてそれが正しい内容であることに確信を持つために)必ずしも作り手の意図を何らかの外的な経路から確かめる必要はない」という話です。意図主義が陥りがちな不可知論を避けるための注記に読めます。
Q. 幼児の絵と同様に、下手な絵が同じように考えられると感じた。書き手にとってうちに見ることを意図している、場合によっては達成していると自認しているが他者から見ると達成されているようには見えないという部分で若干の差異があるのではと思う。
A. 👉 スプー問題
🐪 2.2 意図主義一般の問題
Q.
①理想化された鑑賞者のあたりの話がよくわからなかったです。絵心がある人が猫を意図して描いたとして、猫という誰でも知ってる描写内容なので多くの人はその表面のうちに猫を見ることができるのだろうと思いますが、『動物譚』に出てくるアイベックスという動物が意図された中世の絵は、キリスト教の知識を持った限られた人たちしかその表面のうちにアイベックスを見ることができない。ここにおける「キリスト教の知識を持った限られた人たち」が、理想化された鑑賞者の一例ということでしょうか。
②後世の人間がキリスト教のテクストと照らし合わせて「これはアイベックスの絵であろう」と推測するしかないような、一見奇妙な怪物のような中世美術は、今や作者の意図が判然としないので正誤が言えない、つまり画像ではないということですか(もし作者がアイベックスではなく自分しか想像し得ない奇妙な怪物を描いたのであれば意図は達成されないと思うのですが)。
A.
①についてはその通りです。
②については次のQ&Aを参照ください。
Q. 作者の意図が非常に重要視されているので、作者が既に亡くなっている場合などは正誤判定はどうなるのか気になりました。
Q. 「正しさの基準」には、見る人が書き手の意図を知っているか否かは関係するのでしょうか。
Q. 描写における作者の意図が鑑賞者に伝わることを描写内容における正しさとするならば、例えば作者不詳であったり、作者がその意図を十分に説明していない(が、何かしらの具象物は描かれている)絵画は正誤が担保されず、したがって画像と呼べないことになると思います。この辺りの指摘はなされているのでしょうか。
A. 意図にアクセスするのが困難なケースがあるという問題は、意図主義的な考えに対して頻繁に指摘されることです。そういう指摘に対しては、意図主義者は一般に以下の応答を返すことになると思います(それでディフェンスが成功するかどうかはともかく)。
まず、ここで問題になっている意図は、作者のプライベートな意図ではなく、公共的な意図(当の文化に参加する不特定の人々に十分伝わるように作者が意図しているであろう意図)である。
一般に、作者の公共的な意図は、作者が存命であろうがなかろうが、作品自体を含むさまざまな情報から再構成できることが多い。
仮に作者の意図がまったくわからなかった場合でも、それはたんに〈われわれは作品の本当の内容を知りえないかもしれない〉という認識論的な問題である(不可知論)。存在論的な問題、つまり〈作品の本当の内容は何か〉という話は、それとは独立に考えられる(〈われわれは知らないがたしかに存在するもの〉は無数にありえる)。
Q. 「うちに見る」説の正しさの基準では、受容者の判断に重きを置いているように思えたが、そのような考えに違和感を覚えた。受容者が何と言おうとその作品は作者のものであるのだから、作者の意思が優先されるべきなのではないか。例えば、受容者全員がりんごの絵に見えていようと、作者がこれは犬だというのならば、描写内容は定まっているのではないか。
A. そこまで受容者に重きを置いてはいないと思いますが(意図主義ではあるので)、穏健なのはたしかですね。ラディカルな意図主義者であれば、おっしゃるような主張(作者の意図が全面的に正解を決める)になると思います。ラディカルな意図主義の難点としてよく指摘されるのは、書き損じなどの失敗が説明できないというものです(失敗部分は意図されていないので作品の内容に含まれないことになる)。作品の正しい内容はこれだという話ではなく、作品に接する際には作者の意図を十分尊重しましょうくらいの話であれば、とくに問題にはならないと思います。
Q. 具体例は特に思いつかないが、絵画全体で描いているもののほかに、絵画の作者が隠し要素として何か別のものを描いているとすると、作者としてはウォルハイムのいう正しさの基準を2つ用意していることになるが、鑑賞者に隠し要素が見つけられなかった場合、正しさの基準が1つしか達成されていないことになるが、ウォルハイムの理論ではこれはどのように扱われるのか。
A. 隠し要素をどう説明するかは意図主義一般の問題ですが、理想的な鑑賞者のタイプを2つに分けるなどして処理するのかなと思います(普通の内容がわかるレベルの鑑賞者像と、隠し要素がわかるレベルの鑑賞者像の2つを設定する)。
Q. 「うちに見る」において作者の意図は重要だったと思います。そこで例えば、象の書いた絵などはどうなのでしょう。youtubeで見ると絵の上手な象の絵は想像より上手くて、見る人にとって明らかに一つの描写内容を示すのですが、この場合作者の「うちに見る」視点はどうなるのでしょうか。
A. 動物が作ったものはどうするんだという話は芸術定義論などでもありますが、難しいです。考えられるひとつの方策は、象はたんに訓練された行動をしているだけで、絵を描いているつもりはない(意図があるとすれば、飼育員の意図である)というものでしょうね。いずれにせよ、わたしたちは人工物の扱いについてはそれなりに堅固な共通理解を持っていますが、動物の作ったものについてはそうではないということだと思います。なので(改訂的なアプローチをとるならともかく)記述的なアプローチをとるかぎりは、とくに答えはないかもしれません。
参考:日常的な言葉遣いと定義のタイプ
Q. 作者は制作時点ではそのように描こうと意識していなかったが、それを見た人による「〇〇に見える」という意見を聞いたとき、確かにそう見えると思いなおした場合など、意図せぬ意図みたいなものがあったときはどうなるのかと思いました。
A. これも上記の動物の話と同じく、われわれの文化的実践においてとくに定まった共通理解がないケースだと思います。制作時の意図以外の意図(たとえば他人の解釈の追認のような)も作者の意図に含むと考えていいのかもしれません。
以下の論考で関係する話題が取り上げられています(意図主義をとりつつ鑑賞者による自由な鑑賞を許容する考え方):
森功次「失礼な観賞」『エステティーク』1号、2014年 https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/236789/1c5591684bda631757380aca8592e8c8?frame_id=582577a
3. その他のQ&A
Q. ウォルハイムは「画像」を定義することによってどのような議論を展開したのでしょうか? 今日の講義内容は「〈うちに見る〉ことができるのが画像であり、画像は〈うちに見る〉ことができる」というような話だったように思うのですが、「画像」の定義を用いてウォルハイムが示したかったものはあるのでしょうか。
A. ウォルハイムにかぎりませんが、描写の哲学では、画像あるいは画像表象の本性(nature)を明らかにすることにひとつの目標があります。なので、ある意味で定義がゴールです(そこからさらに話を進めてもかまいませんが)。哲学的な研究ではそういうことがよくあります。ここでの「定義」は、日常的な言葉遣いと定義のタイプの中の「記述的定義」に相当します。
Q. 私もゴンブリッチ説に対する批判や「うちに見る」説は概ね納得できる議論だと感じますが、それに正しさの基準を加えて画像を定義するのは難しいのではないかと思いました。作者の意図の伝達を問題にすると、抽象度が高く、鑑賞者によって解釈が分かれる絵の取り扱いが難しくなると思います。単純に、その伝達が上手くいっているか否かは抜きにして、「見る人に何か全く別のものを想起させようという意図でかかれた色や線の集合」くらいの緩やかな認識では上手くいかないのでしょうか。
A. その定義だと言語記号も含まれてしまいませんか。「何か全く別のもの」「想起」「色や線の集合」のそれぞれにさらに限定を加える必要がありそうです。
Q. ウォルハイムの〈として見る〉説批判の②に関して質問です。見る角度を変えても知覚される描写内容は変わらない、とありましたが、間違い探しなどの絵を逆さまから見たり横から見たりするとまだ見つけていなかった間違いに気づくことがあります。これは「見る角度を変えたことで知覚内容が変わった」ことにはならないのでしょうか。
A. 難しいです。間違い探しで探されているものが、この授業で言う描写内容なのかどうかが問題でしょうね。個人的には、間違い探しで探されているのは、内容レベルの差ではなく表面レベルの違いでいいんじゃないかと思います(つまり、逆さまにすることで、内容以前にそもそも表面に対する知覚が変わる)。そんなに単純な問題でもないかもしれませんが。
Q. ウォルハイムは想定していないと思いますが、「うちに見る」は本物の絵を生で観ることに限られているのか気になりました。PCのディスプレイなどで絵の画像を見る場合、拡大すれば筆跡を見ることも可能なので、「液晶としての表面」と「筆跡などの2次元の内容」となるのか(この場合は写真になる?)、「液晶としての表面」+「筆跡などの2次元の表面」と「3次元の主題としての内容」となるのかは観る側に委ねられているように感じました。
A.
描写内容や〈うちに見る〉内容については、絵を適切な照明のもとで真正面から撮影した写真については、普通の絵と同じように考えられると思います。マチエールの有無は作品鑑賞にとっては重要ですが、〈うちに見る〉という経験にとってそこまで重要ではないからです。ディスプレイ上の表示も同様でしょう。
ただ一方で、おっしゃるように、ディスプレイや写真を通して実物の絵を見る場合、画像表面についての情報が二重になっている(ディスプレイ/写真の表面と、撮影された絵の表面の両方がある)という奇妙な特徴はあると思います。
そういうのを含めた画中画をどう処理するかについては、〈うちに見る〉説の説明力が微妙だという論文はあります(下記)。いずれにしても、絵の絵や絵の写真は、描写の哲学の理論が説明できなければならないことのひとつとしてしばしば持ち出されます。
画中画についての論文:René Jagnow, Depicting Depictions - PhilArchive
Q. ウォルハイムの説の難点として〔…〕思い浮かぶのは、記号的表現によって何かを表象することがあるということです。例えば棒人間を描くとき、それはデフォルメとしてヒトの造形をうちに見るというよりは、描く方は単なる記号としてそれが人であると了解することを意図しているでしょう。そして、それはほとんど間違いなく達成されるものです。
A. 棒人間画像(stick figure)もまた、描写の哲学の理論が説明すべき事柄として頻繁に持ち出されるものですね。この点で〈うちに見る〉説が厳しいのはおっしゃる通りです。一方で、そこで言う「記号的」の意味をもう少し深堀りしないかぎりは、〈うちに見る〉説よりも説明力があるとは言えません。たとえば、言語的記号で「ひと」や"person"と話したり書いたりするのと、棒人間画像を描くのとでは何かが違うはずです。その違いが何なのかまで含めて説明しないといけないということです。
Q. そもそものところで疑問に思ったというかこんがらがったのは、授業終盤で紹介されていた猫のイラストのようにいかにも二次元的な内容の画像を見た際にも同じことが言えるのか?ということです。確かに(あのかたまりが猫に見える)鑑賞者は画像を見ているという事実(表面)と描かれている猫(主題)を同時に知覚していることになると思います。ただあの猫はデフォルメされていて三次元の猫と見まがうようなリアリティはなく記号的な意味合いが強いように思うのです。猫という記号をつうじてリアルな猫を連想する(?)から三次元の主題を見ているということになるのか、それともウォルハイムは表面と主題を同時に知覚することを「うちに見る」と呼んでいるだけで主題が三次元的か二次元的かは特に問題としていないのかが分かりませんでした。
A. 例に挙げた猫のイラストのようなかなりデフォルメされた絵であっても、三次元の物体を〈うちに見る〉という知覚が生じている(ただの連想ではない)というのがウォルハイムの主張ですね。ただの平面を見ている知覚ではないだろうということです。ただそこで見られている「三次元の物体」が実物の猫とはとても思えないというのはおっしゃる通りです。このへんはリアリズムの回などに少し整理する予定です。
Q. 「うちに」見る論を聞いて、最近のインターネットにおけるAIの画像識別システムはどのようにして作られているのか気になりました。
A. 基本は教師あり学習だと思います。つまり、「正解」(画像と正しいラベルの組み合わせ)をたくさん覚えさせてパターンを作っているだけです。教師なし学習もあるらしいですが。
参考:【事例付き】画像認識技術とは!仕組みや原理を徹底解説 | TechAcademyマガジン
Q. (うちに見る)説について自分で考えてみたのですが、モザイクアートはどのような扱いになるのか気になりました。モザイクアートはたくさんの写真を集めて一つの絵を作る作品であり、全体で一つの絵になっていますが、画像の集合体としても見ることができます。近くで見た際には、意識しなければ主題を見ることはできないのではないかと思います。
A. 〈うちに見る〉という概念に素材についての限定はないので、モザイクアートもとくに変わらないと思います。ちょっと見づらいとか、多義図形と同じく画像としての見方が複数あるとかいう特徴はあるでしょうが。
Q. 知恩院の猫の絵のような、どの角度から見ても絵の猫と目が合うというのは「知覚の恒常性」と関係があるのでしょうか。
A. 知恩院の猫にかぎらず、こちらを向いている目を描いた絵の大半は多少ななめから見ても目があうと思いますが、おっしゃるようにそれは知覚の恒常性の働きでしょうね。
Q. 仏像の顔が、あるところに立ってみると微笑んで見えるが他の場所からはそうみえないということがありますが(そう意図されて作られていますが)、これはトロンプルイユとは種類が違うのでしょうか。
A. 立体物が角度によって見え方が変わるというのはちょっと別の話でしょうね。知覚のメカニズムとして共通点がある可能性はありますが。
Q. ゴンブリッチとウォルハイムの「画面」に対する意識の違いが、ルネサンスに端を発し、画面を「開いた窓」に見立てるいわゆる近代以前の絵画と、その平面性を利用した表現を模索する近現代美術のアプローチの違いを反映しているようで興味深かったです。
A. 密接に関連する話でしょうね。描かれた内容だけでなく、絵の表面に注目するという見かた(視覚)自体が、近世以降に出てきたものであると主張する論文もあります。かなりあやしげな論証なので、話半分で聞いたほうがいい話ではありますが。
参考:以下の記事の「視覚の歴史」の箇所:画像経験の二重性(twofoldness)について:リチャード・ウォルハイムとベンス・ナナイ - obakeweb
Q. ウォルハイムの〈うちに見る〉の話が、オースティンの「において in」と「によって by」の区別の議論と関わっていそうに思えたのですが、何か関係はあるのでしょうか?
A.
あまり関係ないと思います。発語内行為と発語媒介行為の区別は、語用論的/言語行為論的な効力が発語そのものに内在しているかどうかの区別だと理解していますが、〈うちに見る〉における「うちに」は、たんにゴンブリッチが言うような切り替えがない(二重性がある)というくらいの意味合いです。
一方で、ウォルハイムの〈うちに見る〉説とは直接には関係ないのですが、描写の哲学で、グライスの「言われていること(what is said)」と「推意の内容(what is implicated)」の区別におおむね相当する区別がなされることはあります。このへんはまた別の回に説明すると思います。
グライスの区別についての解説:三木那由他「言われていることへの二つのアプローチ」『哲学論叢』35号、2008年 http://hdl.handle.net/2433/96272
Q. 「うちにみる」の基準の中で、絵画を通しての精神分析はどのような位置付けになるのかが気になりました。鑑賞者(研究者)は普通とは異なる技術と信念の持ち主ということになるのでしょうか
A. 〈うちに見〉ているのではなく、たんに作り手のメンタリティなりパーソナリティなりを推測しているだけだと思います。作品の様式から個人・民族・時代などの人格を読み取るみたいなのは、20世紀の前半までの古めかしい美術史でけっこうされていたことですね。ゴンブリッチなどがかなり手厳しく批判しています。
参考:シャピロ/ゴンブリッチ『様式』細井雄介・板倉寿郎訳、中央公論美術出版、1997年
Q. ゴンブリッジのところで、「芸術」というより「美術(造形芸術)」と書かれていましたが、ということは芸術という大きい分野の中にもいろいろな種類があり、その中の1つが美術ということですか。確かに前期の美学の授業で、芸術にも音楽や絵画や彫刻などいろんな種類があったな、と思い出しました。
A. その通りです。
Q. がま口についてですが、がま口の財布を横から見たとき三番目の絵のようになるから「がま口」と言っているのではないでしょうか…?口を開いて横から見たかんじです。
A. なるほどですが、言われても〈がま口として見る〉ができないですね…。
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