第2回リアぺのQ&A
🙇 すべての質問を取り上げているわけではありません。
1. 美学のメタ的性格について
👉 美学のメタ的性格
Q. 分析美学は、画像が与える抽象的な印象までも分析的に解釈するものだと理解しました(例えば、「ドガの絵は非常にうまく動きを表現している」という批評に対して、「この人物は重心がこうであって腕の角度がこうである点からそう感じるのだろう」というような)。しかし、このようなアプローチはどれほどの射程を持ちうるんでしょうか?一見はかなり難しい試みのような気がします。「躍動感」や「鮮やかさ」などならともかく、「美しさ」などは特に。
A. 説明がよくなかったのだと思いますが、ちょっと違います。美学のメタ的性格と以下の回答を読んでいただいてわからなかったらまたご質問ください。倫理学においてメタ倫理学がやっていることに近いと考えるとわかりやすいかもしれません。批評や美的判断の理由・根拠を理論化することは、むしろ規範倫理学の仕事に相当します。現代の哲学的美学でそうした規範的な水準の議論をすることは(皆無とまでは言えないですが)まれです。
Q. 分析美学はメタ批判的一面があるということでしたが、分析美学というのは個々の文化的対象が持つ美を研究するのではなく、それを鑑賞し美だと感じる人間側を研究する学問という漠然としたイメージを抱いたのですがこれは正しいでしょうか。
A. 人間か事物かというよりは、美的判断・その理由のつけ方・そこで使われる概念などの論理的な構造にフォーカスするというイメージです。哲学全体がわりとそういうことに関心を持つ分野だと言えますが、それ以外の分野だと、たとえば言語学で文法の構造を研究するみたいなのに近いかもしれません。もちろん、判断や理由づけをするのは人間なので、ある意味で「人間側の研究」と言ってもいいのですが、たとえば心理学のように知覚や感情の因果的なメカニズムを明らかにすることを目指すわけではないです。ちなみに、神経科学や実験心理学をベースにした神経美学や実験美学と呼ばれる分野もあります。
Q. 私は音楽が好きでよくアーティストの曲を聴くことがあるのですが、「最初聴いたときはあまりいいと思わなかったけれど何度も聴いているうちにいい曲に思えてきた」という経験が多くあり、人が「いい曲」「つまらない曲」と評価するとき、その評価の正当性はどこにあるのかとよく考えていました。また、ファッションでも、見慣れない服が売られ始めたら最初は変だと思うのに、流行り出したら素敵に思えてくることも不思議に感じていました。結局、見たり聞いたりする頻度が上がれば上がるほどよく思えてきたり、周りの評価を見ているうちに周りが良いと思うものを良く感じ始めたりするということなのかと思っているのですが、分析美学とはこのようなことを考える学問ととらえて間違いないでしょうか。
A. おおよそその通りです。注意点としては、因果的なメカニズム(どういう認知的なメカニズムでそういう現象が起きるのか)そのものを研究するというより、たとえば美的判断の正当化のあり方(こちらの評価のほうが「正しい」「説得力がある」とはどういう主張なのか)や経験の変化のあり方(「わからなかったものがだんだんわかってくる」「目が肥える」とはどういう事態なのか)、あるいはそれらが日常的な言説空間の中でどのように語られているのか、などを整理して考える仕事というイメージです。
Q. 美学は何を対象とする学問なのかが自分にとってあいまいだったが、美的判断の根拠ではなく、その営みそのものを分析するものだとわかったが、まだ少し理解しきれていないところが残った。美的判断と一口で言えど、その内実には多種多様な感性の使い方があり、それらを一様に扱ってよいのだろうか。たとえば、人々がある絵画を美しいと感じるとき、技術的に優れているという意味で美しいと言う人がいるかもしれないし、自分の恋人に似ているから美しいと言う人もいるかもしれない。この二つの「美しさ」を美学ではどのように扱い分けるのだろうか、または扱い分けないのか。それとも、このような問いそれ自体が分析美学の仕事なのだろうか。
A. それぞれの例を正当な美的判断と見なすかどうかはともかく、理由づけのあり方が明らかに異なるので区別はするでしょうね。最後でおっしゃっている通り、そういう多様さも含めて一般化の解像度を上げていくのが分析美学の仕事であり、モチベーションでもあります。物事を単純化しすぎとか本来多様なはずの事例に無理に理論を当てはめていて乱暴などと誤解されやすいですが、一般化はたんにタイプあるいはパターンとして理解するというくらいのことなので、多様性を尊重することとは矛盾しません。現状の理論の目が粗いと思うなら、さまざまな下位タイプや別タイプをさらに分節化すればいいだけのことです。ついでに書くと、「本当に個別で特殊なまさにこの事例」みたいなのを扱うことには向いていないように見えるかもしれませんが、そういう個別事例の個別性は「雑な理論」との対照によって明確に見えてくる面もあります。
Q. 「美学のメタ的性格」のお話がありましたが、「論者自身の美的な実践」と「彼/彼女の理論」の間に距離をどう取るかは意外と難しい問題だと思いました。近年批判される哲学者の「直観」は美学に限らない問題ですが、美学は特に論者の直観や自身の経験に基づいた理論が多くなるような偏見を私は持っています。
A. 具体的にどういうケースを想定されているかがわからないので、一般的なお答えになります。
議論の前提としてあること(e.g. ある概念が特定の美的性質を指す概念であるということ、美的判断をめぐる論争ではある種の理由によって正当化が行われるということ、美的性質が知覚されるものであること、etc.)が事実だということを受け入れてもらうために、どうしても読者/聞き手の内観に訴えざるをえない面があるという意味ではそうかもしれません。言い換えると、美学者自身が美的実践を行う共同体のメンバーであり、その内部からの観察にもとづいて議論の前提や論点を設定している面があるということです。
とはいえ、その点では、哲学のほかの多くの分野も事情は大きく違わないと思います(倫理学などは問題設定のあり方が近いので、とくにわかりやすいかもしれません)。雑な推測をしますが、仮に直観を持ち出すことが美学でとくに目立つように見えるのだとすれば、分野外の人にとって同意/共有できない直観が相対的に多いからなんじゃないかと思います。逆に言うと、ほかの分野では直観を持ち出したとしても(例示が主張の説明や正当化に使われる際にはつねに直観が持ち出されていると思います)、たまたまその直観が広く共有されているおかげでそのことが前景化しないだけではないかということです。さらに雑な推測を重ねると、これは美的実践にコミットしている人が(少なくとも道徳的実践にコミットしている人などよりは)相対的に少ないということを反映しているのかもしれません。
いずれにせよ、分析系の美学者であればこのあたりの方法上の課題については自覚的に考えていると思いますが、一度ちゃんとメタ哲学者をまじえて議論すべき問題だとは思います(個人的な経験のかぎりでは、他業界(分析美学以外の美学業界人を含む)からのつっこみは誤解や無理解にもとづいていることが多く、あまり生産的な議論にならないことが多いです)。
直観の利用を含めた哲学的な方法について、ひとまずの私見をまとめたもの:
ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える
哲学のわかり方 - ふくろうは昼寝中
2. 美的判断/美的性質について
👉 美的なものと客観性
Q. 「美的判断は客観的かどうか」に使われている「客観的」を「間主観的」と表現することはできないか?というものです。「客観的かどうか」が論点になるうえで挙げられる事実を参照したとき、ある事柄が 二人以上の人間において同意が成り立っている状態とも言えるのではないかと考えたため、こうした仮説は成り立たないのかどうか、先生のご意見をお聞かせ願いたいです。
A. 「間主観的」と言ってもいいと思います。いずれにしても言葉遣いそのものにこだわることにあまり意味はなく、どういう意味でその言葉が使われているかに注意を向けたほうがいいです。
Q. 美的判断の客観性についての議論は大変合点のいくものでしたが、「美的な判断」と「美的でない判断」の差異に自信がありません。例えばある写真がliminalであることを判断する際、その過程で例えば「人が映っていない」「廊下の向こうがよく見えない」などといったある種機械的な要素を意識的に検討している場合、この要素自体は美的と言えるのでしょうか。
A. 何らかの明確な条件がすでに手もとにあって、対象がその条件を満たすかどうかを判断しているだけのケースは、定義上美的判断ではありません。ただ外面的には区別がつかないですし、当の本人もどちらであるかを自覚できないケースがしばしばあると言われます。ちなみに、ろくに美的判断をしていないのに美的判断をしているかのようにふるまう人(それによって美的なマウントをとりたいよこしまな人)は「スノッブ=俗物」と呼ばれます。スノッブも美学の研究対象です。
👉 スノッブ
Q. 美的性質の近くが色知覚のあり方に近いというのはあまり納得がいきませんでした。色知覚に関して後天的な条件といえば、色と色名の紐づけぐらいで、健常者の場合、色知覚は生まれ持った感覚器官によって行われます。これに対して、美的性質の知覚は、周囲の人間の影響や、社会的な流行などの影響などに大きく左右されます。社会において美的性質の知覚が客観的なものだとしても、それは社会という枠組みの中で客観的なだけであって、その枠組みの外から見てみると、相対的なものなのではないでしょうか。マリメッコの美的判断の例でも、「昭和っぽくて」「マリメッコだから」というように、社会的・歴史的背景があってはじめての美的判断だと思います。
A. 言い訳っぽい回答で恐縮ですが、「近い/似ている」は「あらゆる点で同じ」という意味ではありません。美的性質の知覚と色知覚の類比を持ち出す論者は、両者の共通点を強調するためにそうしているだけであって、両者に違いがないと言っているわけではないです。書かれているように、「社会という枠組みの中で客観的」という意味で「客観的」だというのが、もっとも穏当な立場だと思います(「文脈主義」と呼ばれます)。もちろんより強い客観性を主張する立場も、より相対的な見方をする立場もあります。ちなみに相対性の程度は違うでしょうが、概念適用のレベルでは色もそれなりに相対的なものなので(文化相対的でもあるし、個人相対的でもある)、そういう観点での類比も便利です。
Q. マリメッコの話題で、『世界的なブランドだから野暮ったいと思ってはいけないのだろうか?』や、『ブランドという先入観があるというのは完全に否定はできない』というツイートが印象的でした。確かに自分も、ブランドものだからオシャレである、とか高い値段がついているからこの絵画はすぐれている、という判断をしてしまっていた場面があったように思います。美的なものの判断には、作品が帰属するもの(作者など)も影響することがあるのでしょうか。
A. 一般に、知識や先入見といった認知的な前提は、知覚や感情に影響を与えるとされます。結果として、美的判断にも影響を与えるでしょう。問題は、そうした認知的な諸前提によって影響された美的判断がどこまで正当化されるものなのか(より正確に言えば、美的判断をめぐるわれわれの社会の実践は、それをどこまで正当なものとして扱っているか)ということです。現代の美学で標準的な考えは、正当な美的判断をする上で重要な(場合によっては必須の)情報とそうでない情報(さらにはむしろじゃまになる情報)があるという考えだと思います。作者の情報や作品の制作年代などは重要な情報に含まれるケースが普通でしょうね。ファッションやデザインのブランドもそうかもしれません。一方で、「何々のブランドだから」「この作者が作ったから」などという理由だけにもとづいて美的判断らしきことをするのは、2つ上の回答に書いたスノッブに相当します。スノッブ的な判断は、普通正当な美的判断とは見なされません。
この論点に関わる古典的な文献として、たとえば以下があります。読むと考えが深まるかもしれません。
ウォルトン「芸術のカテゴリー」森功次訳、2015年 https://note.com/morinorihide/n/ned715fd23434
ヒューム「趣味の標準について」『道徳・政治・文学論集』田中敏弘訳、名古屋大学出版会、2011年
やや専門的ですが、以下もおすすめです。
森功次「われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか:理想的観賞者と美的価値をめぐる近年の論争から考える」 http://journal.otsuma.ac.jp/2021no31/2021_365.pdf
Q. 美的なもの(様式?)の分類には何らかの基準や最小単位のようなものはあるのでしょうか? 上の例では「マリメッコ」と「昭和の家電」は別物であるとされていますが、さらに「マリメッコ」の中でもAとBは違う様式である、というような分類はどこまですることができると考えられるのかが気になりました。究極的には個別のものにまで行きつくのでしょうか。
A. 論点を3つに分けてそれぞれお答えします。
① ある美的性質のカテゴリーは任意の下位カテゴリーに分割できるか
様式やジャンル、あるいはAesthetic Wikiに見られるようなラベリングされたパターンについては、下位分類が普通にありえるでしょうね(その違いをラベリングすることを有意味に思う文化的共同体があるのであれば)。実際、音楽ジャンルの多くは、そういうかたちで上位カテゴリーから派生したものです。個人的には、美的性質の分類やラベリングはわれわれの社会における文化実践に完全に依存するので、「最小単位」や「究極的」みたいな考え方はあまり意味をなさないと考えています(そう考えない美学者もいるかもしれません)。
② 美的性質の分類は体系化できるか
美的性質の分類に関してなんらかの「論理的」な分類軸を設定して体系化する方向については、20世紀前半くらいまでの美学でそういう議論が一定数あったようですが(美的範疇論と言います)、現代でそういうことをまじめに論じている人はおそらくいません。
以下の論文の注7にあるのが有名なデッソワールの美的範疇の図です。
https://core.ac.uk/download/pdf/233178651.pdf
九鬼周造の『「いき」の構造』も同じ意味で美的範疇論と言えるでしょうね。九鬼の議論は、有名な6面体の謎図も含めて話半分に読むぶんには普通に面白いので、ひまな方におすすめします。
青空文庫:九鬼周造 「いき」の構造
6面体の図:https://kamomelog.exblog.jp/25961021/
おすすめ教科書:
佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年、「美的質/美的範疇」の章
③ 美的性質の適用基準は明確化できるか
これは美学で伝統的に論じられてきたトピックのひとつです。
美的性質が「知性的に」把握されるものではなく「感性的に」把握されるものであるという話題との関係で、美的性質の適用基準(あるものが当の美的性質を持っていると言えるかどうかの基準)は概念的な条件としては明確化できないという見解が比較的広く受け入れられています。
さらに進んで、美的性質が本質的に「個別的」である(まさにそのものしか持っていない「ユニーク」な性質である)などと主張する立場もあります。この考えからすれば、複数の事物の美的性質をいっしょくたに分類する様式概念やAesthetics Wikiの"aesthetic"は乱暴ということになるかもしれませんね。
このトピックについては、とくにフランク・シブリーという分析美学者が集中的に取り上げて質の高い議論を展開していますが、いまのところほぼ英語でしか読めません。目下翻訳プロジェクトが進行中で、そのうち(来年?)論文集の邦訳が出る予定です。
👉 「xがこれこれの性質を持つならば、xは美的に良い」という一般的な条件を提示することはできない
3. Aesthetics Wikiについて
👉 List of Aesthetics | Aesthetics Wiki | Fandom
Q. 授業で紹介されていたAesthetics wikiをのぞいてみました。「emo」の項目があったので覗いてみると、現代の日本で何となく心が動かされた時に使われているような雰囲気ではなく、ハードコアの感情的な音楽に由来するものとして説明されていました。時がたつにつれて今の使い方に変わっていったのか、全く違うものとして別々の時に発生したのかわかりませんが、同じ”emotional”という語から受け取る美的な価値観の違いから、異なったニュアンスの意味を持つようになっているのが興味深く感じました。
A. わりと知られた話ですが、日本語で2010年代半ばあたりから広まった「エモい」は、本来の美的概念としての"emo"のニュアンスからはだいぶずれています(一応は後者から前者が派生したという順番だとは思います)。どちらが正しいというわけではないですが、「サブカルチャー」と同様にこういう意味のずれ(言葉の使い方のずれ)はよくあることなので、何か書いたり読んだりするときに注意するくせをつけたほうがいいでしょうね。
Q. 暴走族が美的なものに含まれるというのは、視覚的なイメージとは区別される慣習的に獲得されたイメージ(主に精神性の部分)も評価の対象となっているように感じるのですが、ここではどのような解釈に依るのでしょうか。その場合、日本で通念的に用いられるような「美学」の意味と重なっているように感じ、違和感を覚えました。
A. 日本語の俗語の「美学」は、ほぼ「美意識」や「美的な価値観」と言い換えられると思いますが、Aesthetic Wikiにあるのは、そうした価値観そのものではなく、複数のプロダクトに共通して見られる特徴(ある種のパターン=型)です。そうしたパターンが特定の美意識・価値観を持つ人々によって支持されることは普通にあって、さらにそのパターンを名指すときにその集団の名前が転用されることもしばしばあるのだと思います。"Bosozoku"はそういうケースでしょうね。ただその場合の"Bosozoku"は、人のカテゴリーとしての暴走族(やその人々が持つ美意識)そのものではなく、ある種のプロダクトが共通に持つ特徴として理解したほうがいいということです。
4. サブカルチャーについて
👉 「サブカルチャー」について
Q. サブカルチャーの定義について質問です。サブカルチャーという単語が使われるようになったのは現代だと思いますが、19世紀以前の文化に対して用いることはできるのでしょうか。
A. 一般に概念の遡及的な適用(その概念がなかった時代にその概念を適用する)は可能であり、それゆえ原理的には「サブカルチャー」も問題なく遡及的な適用が可能だと思います。ただ、そもそもサブカルチャー(本来の意味)という独特の文化様態の発生には、資本主義における文化産業の構造(いわゆるマスプロダクションと流通)が重要なかたちで関わっているという考え方もありえるので、それを考えると大量消費社会以前の文化や、現代であってもマスプロダクションではない文化(たとえば現代美術など)には適用しづらい面があるかもしれません。いずれにせよ、その概念を適用することで何が言えるか/言いたいかを気にしたほうがいいでしょうね。別の言い方で十分にしっくりくるなら、「サブカルチャー」という語を使う必要はとくにないと思います。
Q. 以前は主流ではなかった文化で後に主流となったものに対してはサブカルチャーという用語は使われるのでしょうか。たとえば、悲劇が主流だった時代の喜劇や悲喜劇に対してサブカルチャーと呼ぶことはできるのでしょうか。
A. 「サブカルチャー」(本来の意味)は、特定の時点におけるある文化の様態やスタンスを指す語です。なので、ある時期にサブカルチャーとしての性格を持っていた媒体や表現形式やジャンルであっても、時代が変わって主流になる(サブカルチャーでなくなる)ことは普通にあります。出されている例で言えば、悲劇が主流だった時代の喜劇や悲喜劇はサブカルチャーだと言っていいかもしれませんが、だからと言って、喜劇や悲喜劇が他の時代にも(あるいはつねに)サブカルチャーだと言えるわけではありません(特定の表現形式や媒体やジャンルの位置づけは時代ごとにさまざまです)。補足ですが、本来の意味での「サブカルチャー」に対比される「主流」には、「正統・高尚・洗練・格上」といった価値的な含みはありません。もしそういう格の上下みたいな話がしたければ、別の対立概念(たとえば、「ハイカルチャー/ローカルチャー」)を持ってきたほうがいいと思います。
Q. 先生のツイートで言うところの「おしゃれマイナー志向のスノッブ」とは「サブカルワナビー」といった言葉で使われる意味での「サブカル」という理解で大丈夫ですか?今年の映画『花束みたいな恋をした』ではそういった人々を思いっきり揶揄っていて面白かったです。
A. おおむねその理解でいいです。
参考:サブカルっぽい人あるある | ガールズちゃんねる - Girls Channel -
Q. 日本語の「サブカル」について、メインカルチャーからの落伍者に与えられる蔑称(自虐)の部分もあると思っています。誇りを持って自称している部分ももちろんあると思いますが、日本における王道の人生を送れなかった人々への揶揄としてレッテル貼りされる言葉でもあります。だからあまり簡単に使えない言葉になってしまっているなあと感じました。冬野梅子さんの『普通の人でいいのに!』などの漫画を読んで強く感じていることを書いているので、若干穿った見方かもしれません。
A. 「サブカル」がそうかどうかはともかく、おっしゃるように暗に価値づけを伴っている分類用語やその使い方(自称と他称の差も含め)には十分に気をつけるべきと思います。「オタク」という語の歴史にも似た面があります。
ちなみにいわゆるサブカルは、メインストリーム(普通の人)との意識的な差異化、それによる社会生活上の生きづらさ、美的感受性が高いことの自負、内部でのマウンティング合戦、それらすべてに対するメタ視点(自分自身や他者の目線を相対化すること)、といった諸々の鬱屈込みで最初から成り立っているカルチャーだと思うので、外部からの単純な揶揄によっていまさらダメージを受けることはあまりないんじゃないかと思います(文化にまとわりついたそういう呪いをどう解くかという問題は別途ありますが)。
私見です:https://twitter.com/zmzizm/status/1288892870598901760
5. 描写について
Q. 文字などのゲシュタルトと画像におけるゲシュタルトが混同される一例としてルビンの壺をあげて説明されていましたがそのあたりがいまいちよくわかりませんでした。文字においては文字そのものだけが意味を持つものとして認識され、背景は意味をなさないものとして認識されるが、画像の場合は主となるものがあったとしても背景も画像の中で意味を持つものとして認識されるという違いがあって、ルビンの壺では主となる図と背景の地が入れ替わるものなのでそのあたりが混同の原因なのかと推測しましたが、時間がある時にでももう一度説明していただけたらと思います。
A. 第3回の授業でポイントがだいたいわかると思いますが、ここでも説明しておきます。
まず文字自体はゲシュタルトとして把握されますが、文字の意味はゲシュタルトとして把握されるわけではありません(文字列と意味を対応させる言語の決まりによって意味が引き出される)。なので、文字にはゲシュタルトの水準が1つしかありません。
一方、普通の画像の場合は、画表面のゲシュタルト(二次元の色と形のパターンとしてのまとまり)に加えて、それが描く内容もゲシュタルト(三次元の物体としてのまとまり)として把握されます。いわばゲシュタルトの水準が2つあります。
ルビンの壺のような多義図形は、ゲシュタルトの切り替わりの例として頻繁に持ち出されるわけですが、そこで切り替わるとされる2つのゲシュタルトは両方とも絵の内容、つまり三次元の物体です(壺か、向き合った人の顔か)。実際には多義図形にも画表面のゲシュタルトの水準があるのですが、その点が強調されることはありません。
それゆえ、多義図形についてのこの理解をもとにして多義図形ではない普通の画像を理解しようとすると、ゲシュタルトの水準が1つであるかのように思えてしまう(それで文字のゲシュタルトと大差ないように思えてしまう)のではないかということです。
多義図形におけるゲシュタルトの切り替わりの話を、画像の表面と描写内容の話にそのままスライドさせているのが、ゴンブリッチの理論です。
👉 ゴンブリッチの〈として見る〉説
Q. 画像には2つのゲシュタルトがあるという話を聞いて、かつての絵画が作品を通して描く対象そのものを見せようとしていたのに対し、19世紀には作品の媒体を意識してただの平面としての要素を強調したものが出てきたことを思い出し、それと同じような区分だろうかと思いました。
A. 区分としてはその理解でかまいません。今回の授業では「表面」と「内容」という言い方でひとまず区別しますが、描写の哲学の中でもいろいろいな言い方で区別されます。画像の表面を気にするという視覚のあり方自体が歴史的に言って比較的新しいものだという議論もあります(けっこうあやしげな論法ではありますが)。
参考:画像経験の二重性(twofoldness)について:リチャード・ウォルハイムとベンス・ナナイ - obakeweb
Q. 画像か否かを判断するにあたり、「三次元」という言葉がよく用いられていたことが印象的でした。画像という本来二次元のものを、三次元の視点から考えることにはどのような意義があるのでしょうか。
A. そう考えることに意義があるというか、端的な事実として、画像の描写内容(描写されているもの)は三次元の物体や空間である(少なくともわれわれはそのように画像を見ている)というくらいのことです。普通はペーパーマリオのような世界が描写されているわけではない(もちろんペーパーマリオがそうであるように、そういう世界を描写する画像もありえるが)と言えば伝わるでしょうか。
ペーパーマリオ:https://youtu.be/dwnXnAwUcg4?t=773
Q. 今日のQ&Aを聞いていると、画像かどうかは個別の例を見て判断というものが多く、概念の理解自体がなかなかに難しいと感じました。
A. 個別に判断する必要があると言っていたのは、スタンダードな画像や明らかな非画像ではなく、画像かどうかの境界事例です。境界事例がどっちに入るかを確定しなくても、中心的な事例と排除される事例を見れば、大まかな概念は把握できるのではと思います。境界事例を細かく問うことは場面次第では意味がありますが、問うても仕方のない場面もあります。
👉 境界事例についての疑問と考え方
Q. 漫画の漫符が描写に入るかの基準の一つとしてフィギュア化の話があった。フィギュア化はキャラクターに焦点を置きまたキャラクターのみを物体化するために、汗や鼻ちょうちんなど体に接触している表現はフィギュアに反映しやすいという特徴があると考えられる。よって、フィギュア化ではなく小説化したときにどの漫符が描写に反映されるかで考えた方が適切ではないかと思った。
A. 前回授業でも少し触れましたが、描写の哲学では、画像の内容(絵として描かれている内容)とフィクションの内容(当の画像を使って表される物語世界上の事実)を区別することが多いです。マンガ・アニメ・実写映画などの画像を使ったフィクション作品が小説に翻案される際に引き継がれるのは、普通はフィクションの内容でしょう(マンガ・アニメと実写のあいだの翻案でも同じことが起きます)。詳しくは、フィクションとノンフィクションの回、あるいはキャラクターの回に説明します。
予習用文献:
松永伸司「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1巻2号、2016年
岩下朋世『キャラがリアルになるとき:2次元・2.5次元、そのさきのキャラクター論』青土社、2020年、12章
6. その他
Q. 今後の講義でがっつりした論理学の知識を使うのか気になりました。
A. 描写の話題では使いません。おそらく「命題」とか「述語」という言葉が出てくる程度です。
Q. 分析美学が分析哲学のネットワークの中にあることが指摘されていたが、分析哲学の範囲には入らないような現代の哲学とはどのくらい関連/断絶しているのか。
A. どのくらいつながりがあるかないかは、正直なところよくわかりません。話題としては近いものはあると思いますが(たとえばベームというドイツの哲学者が『図像の哲学』という本を書いていますが、描写の哲学の関心と重なる部分はそれなりにあると思います)、利用する理論的概念がだいぶ違うと思います。あとは議論のスタイルが明確に違うでしょうね。分析哲学者は単純化・定式化・議論の応酬を好む傾向にあります。
参考:分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告/森功次 - SYNODOS