自然法則とアフォーダンス
私は,自然科学というのは,ある種のアフォーダンス(affordance)だと考えている[11].アフォード(afford)とは「供給する,何かを可能にする」という意味の語であり,例えば,水は「洗う」「流す」「冷やす」「煮る」「泳ぐ」「潜る」などの行為をアフォードする.水がどのような行為をアフォードするかは,水の物理的性質としてあらかじめ決まってはいない.それに類似して,物理的な外界と,ある感覚器官・認知能力・ 運動能力を持った人間とが出会って,人間が世界を意味づけて世界に対してうまく働きかける.このことを世界の側から見れば,「世界が,人間に,世界理解と世界への介入・ 操作をアフォードしている」ことになる.「物理法則は完全に外界の側だけにあり,物理理論に現れる諸概念は文字通りに世界の側に実在している」という完全客観的実在論も極端であり,「物理法則は人間のこしらえものにすぎない」という主観的観念論も極端すぎていて,正解は,物理理論は世界の実在像をある程度適切に記述しているし,世界はそのような認識・記述を可能にするようにできていた,というところにあるのだろう.
こう言うと,「どうして世界は物理理論の公理化をアフォードしてくれたのか?」,「どうして世界はそんなふうに都合よくできていたのか?」というようなメタな問いかけをしたくなるかもしれないが,世界が人間に理解可能にできていたことはラッキーだった,こういう秩序ある世界だったから人間が生まれ世界に適応して世界を記述・理解する方法を発達させたのだろう,くらいに思うしかないと私は思う(文献[4]でも私はそういうことを論じた).メタな問いかけをしたくなる気持ちはわかるが,世界のありようを謎めかす疑問を発したところで意味のある答えは期待できないと私は思う.
『〈現実〉とは何か』の読者はここで、「法則は非規準的な『問い』に対する応答としてしか現れない」すなわち「問いがなければ答えはない」というテーゼを思い出すはずである。 ここで際立ってきているのは、どういう条件を設定するかを決めなければ、統計的法則それ自体が定まらないということである。一個の必然性があらかじめ定まっているというのではなく、あくまで「こうすればこうなる」という形で条件と法則が結びついている。逆に言えば、それを使って現実の事象を制御することもできるわけであり、それが現代の量子テクノロジーの基盤となっている。量子論以前の統計においては、本当の法則は一つに決まっており、法則の不定性は人間の無知や様々なバイアスによるものだと考えられていた。ところが、法則の不定性には物理的な基盤があり、その不定性自体が、自然の正当な現われ方なのだということが、量子論において明らかになってきたのである。もちろん、人間の無知や多様なバイアスによる不定性もあるのだが、それだけで法則の不定性をすべて説明することはできない。それどころか、「法則が必然的に決定されている」という考えに固執することは、そこで起こっていることの理解を妨げ、本来見えるべきことを見えなくしてしまうという意味で、不当でさえある(11)。
つまり、自然は何らかの問いかけに対してのみ答えを与えてくるのである。問いかけ以前に何かがすでに定まっているという考え方は、そこで起こっている事態を記述するにはむしろ不適切であるということが、量子論において際立ってきている。
ここで、先ほど述べた「法則に書ききれないもの」は、二重の仕方で現われている。(1)たとえ統計的法則が定まったとしても、どの選択肢が選ばれるかは法則に書ききれない。二重スリットの実験の場合、個々の感光点は決定論的には記述できないのである。(2)そしてさらに、その統計的法則それ自体が、どのような条件を用意するかによって変わるのであり、どの条件を用意するかは、法則に書ききれない。どれを選ぶべきかは、法則には書かれていない。二重のスリットの両方を開けてもよいし、片方を塞いでもよい。それを決めるのはわれわれである。
もちろん、二つのスリットを開けておきながら、縞模様にならないように自然に命じることはできない。つまり、条件に応じた結果をわれわれが勝手に決められるわけではない。しかし、結果が現われるための条件は、われわれが決めるほかない。そして、その条件をどのように決めるかを指定する法則があるわけではないのである。そのような法則なしに、われわれは「問い」を発するのでなければならない。それに「応答する」形でしか、「法則」というものはありえない。端的に言うならば、「問いがなければ答えはない」のである。
『〈現実〉とは何か』pp. 53-54
...[問いの]「主体的設定」とは言っても、好き勝手に法則を生み出す(捏造する)ことができるわけではもちろんない。そうではなく、法則というものは、必ず「問い」に対する「答え」として見えてくるのであって、何の「問い」にもよらずに法則がただあるということはない。その法則が語っている現実は、ある意味で「すでにある」と言ってもよいが、それについて語る法則が一つの形をとるには、われわれの側で現実に対して「問い」を投げかける必要がある。「問いがなければ答えがない」という構造=出来事は、すべてのレベルにおいて貫かれている。それゆえ、法則というものが生まれる場面に即して言うなら、そこでは「自由」というものが欠かすことのできない役割を果たしていると言うことができる(15)。
『〈現実〉とは何か』pp. 224-225
「主体的設定」とは言っても、好き勝手にアフォーダンスを生み出す(捏造する)ことができるわけではもちろんない。そうではなく、アフォーダンスというものは、必ず「問い」に対する「答え」として見えてくるのであって、何の「問い」にもよらずにアフォーダンスがただあるということはない。そのアフォーダンスが語っている現実は、ある意味で「すでにある」と言ってもよいが、それについて語るアフォーダンスが一つの形をとるには、われわれの側で現実に対して「問い」を投げかける必要がある。「問いがなければ答えがない」という構造=出来事は、すべてのレベルにおいて貫かれている。それゆえ、アフォーダンスというものが生まれる場面に即して言うなら、そこでは「自由」というものが欠かすことのできない役割を果たしていると言うことができる。
cf. アフォーダンスとしての化学的性質
Harré, R. (2014). New tools for philosophy of chemistry. HYLE – International Journal for Philosophy of Chemistry, 20, 77–91.
ただし、これらの論でのアフォーダンスの実在性はTurveyらの「傾向性(disposition)」説に基づいている。
disposition説はアフォーダンスと動物の"effectivity"の間の相補性を説く点では正しいが、少なくとも「この」アフォーダンスと「この」動物の間のone-to-oneの相補的関係に注目する限り、その実在性を擁護するのはかなり難しいんじゃないかと思う。
このように一般化していくと「アフォーダンスの固有性は何なのか」「アフォーダンスも結局物理的な性質と同格の、それを言い換えただけのものにすぎないのか」という疑問がわくかもしれないが、そのような解釈とは逆に「我々が現実と呼ぶもの一般をいわば『アフォーダンス的』に捉え直すべきである」と考えるべきだと思う。
※「そもそもなぜ世界に法則性があるのか」については大野克嗣『非線形な世界』も参照:
... われわれの環境の理解の仕方は現象論的であり,現象論的理解で十分われわれが生きていけているということが,この世界についての自明でない経験事実である.そして,これは(われわれの外部に厳然と存在する)世界がもっているある性質(ある種の法則性の存在)のおかげである.コンラート・ローレンツ(K. Lorenz 1903-1989)は彼の'鏡の背面'の中で次のようなことを言っている:魚の形が流体力学的に見事にできているのは水のある性質,その長時間挙動が流体力学にしたがうということ,の反映だが,水が流体力学にしたがうのはその中を魚が泳ぐからではもちろんない,と.水は魚が存在する以前から存在したのだし,魚がいなくても水の流体力学的法則は成立し続ける.われわれの脳と世界の関係もこのように理解されるべきものである.つまり,われわれの脳がある種の法則性を認識できるように作られているのは,世界に我々を離れて法則性が「実在」するからだ.
大野克嗣『非線形な世界』pp. 22-23
改めて見てみるとなんかすごくアフォーダンスっぽい感じの文章だった
もし世界が完全に無法則的で認知できるパターンがないなら、大きな脳は無駄である.したがって、われわれが脳を持つということはこの世の'合'法則性の現れである.魚が流体力学的に見事な形をもっているのは、水が流体力学的性質を持っているからであって、当然ながら、魚が泳ぐのが原因で水が流体力学に従うわけではない.同じ論法で、論理や基本的な数学がわれわれの住む世界にわれわれの有無を離れて存在し、その証拠がわれわれの大きな脳であると見るのが動物行動学的に合理的だ.
動物行動学といえば、大野さんは元々霊長類研究出身で、サルの顔の見分けがどうしてもつかないから数理物理に移ったという凄まじい逸話がある
フッサールの「世界無化」っぽくもある(田口茂『現象学という思考』参照)
事物が存在し、事物を含んだ世界が存在する、ということは、きわめて「あたりまえ」のことに思える。事物と世界は、それ自身だけで、独立的に、われわれとは無関係に存立しているように思える。だが、そのように「あたりまえ」に思える事物の存在と、それを含む世界の存在は、実際には、深い受動性のレベルではたらいている「類型」の力によって絶えず産み出されている出来事である。それは、主体としてのわれわれが勝手に産み出しているわけではないが、主体としてのわれわれをも避け難く巻き込みながら、事実的に、怒濤のように成立していく類型の力が、結果として現象のなかに形づくっている形姿である。われわれを巻き込んで怒濤のように成立していくこの出来事(仏教なら「暴流」と言うだろう)から、「事物」とか「世界」と呼ばれるものを切り離すことはできない。それらは、こうした類型が成立していく出来事に、あるアスペクトから名前をつけたものにすぎない。こうした名前の固定性ゆえに、われわれはそのように名付けられたものが同じく固定的に「ある」かのように思ってしまう。それに対し、フッサールは、このような類型の成立が、一つの事実的で偶然的な出来事にすぎないということを指摘する。つまり、「そうでなかった」可能性も、十分に考えられるのである。フッサールはこう言っている。
「経験が、自らの事物定立を調和的に一貫して保持しようとする要求に逆らって、一挙に手に負えないものとなって立ち現われ、経験の連関が、諸々の射映・統握・現出の確固たる規則的秩序を失い──そして世界がもはや存在しなくなるということは、思考可能である。」(III/1, 103)
類型が形成されず、一切がランダムに流れゆく変転のままにとどまることも、十分に「可能」である。ただ、事実上そうはなっていないだけである。この根本的な事実によってこそ、「事物があり、世界があり、人間がいる」という形をとって、現象が立ち現われるという出来事が、可能となっているのである。
田口茂『現象学という思考』