『〈現実〉とは何か』とアフォーダンス
このように考えるならば、真理とは単に発見されるものなのか、それとも創り出される(創造される)ものなのかという問いに対しては、「どちらでもありどちらでもない」と答えることができる。いわば、「その真理は元からあった、つねに成り立っていた」と言えるということが創造される。真理そのものが勝手に創造されるわけではない。真理は、厳然と変えられないものとして露わになるのだが、その「厳然と変えられないものとして露わになる」という事態が成立することは、何らかの創造的な非規準的選択によって可能になる。「発見される」というときには、「誰でも発見しえた」ということを含意し、「創造された」というときには、「一度かぎりの主体的な活動によって」ということを含意していると思われるが、この二つは対立することなのではなくて、われわれが非規準的選択と呼ぶ一つの出来事にもとづいて、はじめて語りうるようになることなのである。
西郷甲矢人・田口茂『〈現実〉とは何か』pp. 88-89
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アフォーダンスとは単に発見されるものなのか、それとも創り出される(創造される)ものなのかという問いに対しては、「どちらでもありどちらでもない」と答えることができる。いわば、「そのアフォーダンスは元からあった、つねに成り立っていた」と言えるということが創造される。アフォーダンスそのものが勝手に創造されるわけではない。アフォーダンスは、厳然と変えられないものとして露わになるのだが、その「厳然と変えられないものとして露わになる」という事態が成立することは、何らかの創造的な非規準的選択によって可能になる。「発見される」というときには、「誰でも発見しえた」ということを含意し、「創造された」というときには、「一度かぎりの主体的な活動によって」ということを含意していると思われるが、この二つは対立することなのではなくて、われわれが非規準的選択と呼ぶ一つの出来事にもとづいて、はじめて語りうるようになることなのである。
もっというと、ここでいう「非規準的選択」(non-canonical choice)とは関手(functor)の生成のことであり、関手とは一般に「ある圏から別の圏を『見る』こと」であると言える(Fong & Spivak『活躍する圏論』p. 89)。
その最も端的で重要な例が、何かを「測る」(数量化する)という関手である(『〈現実〉とは何か』pp. 121-122)。
この「測る」「数量化する」という行為には、常に何らかの単位や尺度(scale、standard)の選択が伴う(e.g., メートルなのかヤードなのか)。そしてその選択には絶対的な規準はありえない。しかし、なんの尺度も選択しなければそもそも「測る」ことができない。
このように、それが絶対的なものではないことを理解しつつ何らかの「見方」を選び取り、同時にそれによって他のありえた「見方」との間の変換のネットワークに入ることこそが「非規準的選択」である。
そして、環境のアフォーダンスを知覚することは、自分の身体や能力を尺度(ものさし)として環境の性質を「測る」ことであり、それは一つの関手で表現される。
人間はリンゴを噛み砕くことができるが岩石を噛み砕くことはできない。人間はハンドルを握ることはできるが、壁を握ることはできない。... 人間は、自分の身体という基準原器[standard]を用いて環境のこうした特徴を測定するのだ。
Gibson, 1977; p. 79 (quoted in『知覚経験の生態学』p. 82)
これを最もシンプルな状況設定において実験的に示したのが、Warrenの実験である。
ウォーレンは、高さを制御できる段差を利用して、歩行者が「登れる」と知覚する高さと「登れない」と知覚する高さの境界を測定することを試みた。身長が低い群(平均一六三センチメートル)でも、身長の高い群(平均一八九センチメートル)でも、知覚的判断がわかれる分岐点になる高さは脚の長さの〇・八八倍付近に集約された。同様に、最もエネルギー消費が少なく登ることのできる階段を測定してみると、結果は脚の長さの〇・二六倍の高さ付近に集約された。つまり、「登ることができる」とか「楽に登ることができる」といったアフォーダンスの主観的側面は、歩行者の足の長さと段差の高さの比率という客観的数値に対応しているのである。アフォーダンスが動物と環境の相補性を捉える概念だからこそ、それは主観的であるとともに客観的でもあり、その二分法を超えているとギブソンは言うのである。
田中彰吾・河野哲也『アフォーダンス:そのルーツと最前線』p. 35
これは、自分の身体(脚)をものさしとして高さを測るということにほかならない。
ただし、この研究以後の実験で、そこまで単純に足の長さと比例するわけでもないだろうということは言われている。詳細はAnthony Chemeroの"Radical Embodied Cognitive Science"を参照。
つまり、単純な比例関係に落とそうというのは流石に無理があり、よりフレキシブルな構造をもって捉える必要がある。そして、それこそが自然変換なのである。
そして、アフォーダンスの実在性とは、異なる関手間の自然変換によって表現される「この身体性・能力に対しては、このような行為の可能性が与えられる」という関係がもつ法則的な構造であり、それによって関手の設定に伴う「非規準性」が消され、「誰にとっても」そうであるようなある種の「客観性」が得られるのである。
ただしその客観性は、「どこからでもない眺め(the view from nowhere)」のようなものではなく、常に何らかの視点から「見る」ということからは離れていない。
※「真理」もある種のアフォーダンス?
「それを見る」「それを受け止める」ということをアフォードする
認知的な活動(それもまた一種の行為である)に対応するアフォーダンスとして「メンタルアフォーダンス」というのも提案されている:McClelland, T. (2020). The Mental Affordance Hypothesis. Mind; a Quarterly Review of Psychology and Philosophy, 129(514), 401–427. https://doi.org/10.1093/mind/fzz036 We can say that things afford perceiving what they really are. (Rietveld and Kiverstein, 2014; p. 344)
↑この論文が非常に重要。10年間で1000回以上も引用されている、現代のアフォーダンス論においては必読の論文である。この論文の論旨と『〈現実〉とは何か』のパラレル性に気づいたことが7割くらい。
残りの3割は、Warrenの実験を順序間の関手とその間の自然変換で形式化できるという気づき。これについては上で引用した田中彰吾・河野哲也『アフォーダンス:そのルーツと最前線』に感謝。