クソ言説と軽やかに向き合う術
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どうやったら一般化できるんだろうかとずっと考えているが、MBTIが鬼のように流行ってる時点でだいぶ厳しい。 僕の場合は学校の先生嫌いの性格が功を奏した感ある。ある種の冷笑的厨二病。
しかし一つの言説、権力的なものに対して単に反動的であるだけでは意味ないからな…
自分の欲望をしっかりと見つめる。
この欲望、は多分野崎さんがちょっと前にアレントの話で出してた「意志」に近いと思っている。行為の源泉。
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ちゃんと友達とガチの話をする。ノーガードに近いやつ。Kai.icon
これ意外とむずいですよね…nozakimugai.icon
自分の場合ユーモアをガードに使ってしまいがちかもnozakimugai.icon
ユーモアが大事な局面もありますが、「面白いから」言える、ではなくて「面白くないが」言えるみたいな関係を目指すべきだとは思います。それこそ冷笑との距離のとり方というか。。Kai.icon 関係値がそこまで深くない人には冷笑的でなくガチ寄りのユーモアを目指すべきな気はする。
面白くないことを言ってもその先に実践が伴ってくる気配がないから(実践のためには諦念とそれを受け容れるユーモアがいるので)、結局どこかでユーモアを使う必要がある気がするkbyshwtn.icon
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軽やかではないけど、この世界自体がクソ言説に溢れすぎていて、自然とラップのリリックの中で批判的スタンスのWords達が出てくる
多分自分がかなり社会派っぽいからなのもあるけど、創作の中で取り入れることによって鬱憤を晴らしている気がする
クソ言説に対してしっかり対峙することが重要だと感じている
野崎の言ってた「軽やか」には、そうすることこそがしっかり対峙することなんだ、あるいは真剣に考えることの条件にはそういう軽やかな態度が含まれる、とかそんなニュアンスがあるんじゃないかと思っているkbyshwtn.icon
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修論でハウスミュージックの倫理・政治性みたいなのに言及してるときに考えてたけど、「ただ享楽すること」が批判的なパフォーマンスになる状況というのが必ず存在していて、それをいかに作り出すかが重要なんだと思う。 「向き合うこと」が苦しいものでなくてはならないとは限らない、という。
ちょっとムカつくが菊地成孔がいいこと言ってました。Kai.icon
僕がアナーキズムに惹かれているのも、それに通ずる理念をアナーキズムが持っているからというのもある
「そもそも人間・動物の生はアナーキズム的なもので、己の自然な生を全うすること自体がある種の革命である」みたいな
p53 統治に対するアナキズムの批判は、偏った先入見などではない。アナキズムの批判は、統治することは「悪」だと考えるのではなく、統治することは不可能だと考える。こうした不可能性は、存在から心理、実践、芸術、生命にまで広がる結合の網目のように、多様なかたちで現実の中に刻み込まれている。この不可能性の風景は、いかなる統治も届きえず、管理しえない存在と魂の領域と一致している。 マラブーか!アツすぎる…。
これももちろん反知性主義とかに転化する危うさはあるが、今後(少なくともしばらくは)クソであり続けるであろう社会の中で、休憩しつつ持続的に向き合い続けるためには、何らかのかたちで取り入れるべき態度なんだろうなと思う
2年くらい前までは「ペシミズムを楽しむ」みたいな態度が有効だと思っていたけど、それが意外とメンタルをすり減らしていたことに最近気が付いた
人間は多少スピってた方がいい
ここ1,2年の持論として「80歳超えてないスピは許さない」があるkbyshwtn.icon
名著書き続けてたジジイが晩年にスピ展開し始めても、それは若い自分にとって信頼に足るものだと思える「重み」があるのだが、逆にその重みのないスピは他者から見てあまりにも不安定。
スピは本来「(いわゆる)人間に耐えられる」代物じゃない気がするので、支えをひたすらに積み上げてきた人間じゃないと取り扱えない。若いスピは自身のメンタルのケアの仕方が「自身に対する欺瞞」だというだけで、本来褒められたもんじゃない。
あるいはスピってない人の「善い欺瞞」を取り損なってるとか。スピの世界観に含まれる救済みたいな発想は人間の楽観主義的本性なのかもしれない。事実、思考の限界地点において「祈るしかない」という事象は無限にある。が、誰も彼もそんなことはわかった上で真面目に認識論や因果律の世界で生きてる、みたいなところはある。それこそがスピの不安定さに耐えるためのトレーニングなんじゃないか、とか。
スピミュージシャンが多すぎる和歌山での参与観察の結果、上の考えにたどり着いた
この考え方は言説に対する軽やかさと矛盾しない(はず)
野崎さんの言う「スピ」はなんとなくスピリチュアル然としたものじゃなくて、「キマってる」的なことなのかなと思いましたKai.icon 「人間は原理的に統治不可能なんで」(目がギンギン)みたいな。
僕は統治と制限は違うと捉えていて、制限は可能であるが統治は不可能だと思います。
自分すらアンコントローラブルな存在であり、欲望を制限することは可能であるが、欲望しないように統治することは不可能である。みたいな。
統治されない状態に耐えることもまた人間にとって不可能なことなのでは?という根本的な人間観があるかもしれんkbyshwtn.icon
マトリョーシカ状に再生産され続ける支配-従属の関係を解体する努力には肯定的だし、その後に独裁に陥らずに新たな内発的かつ分散的な、権力なき有機的なシステムとしての秩序みたいなもの(いうならば「むきだしの自然」)が現れるべきだ(現れてほしい)、みたいな発想はあるが、それがアナキズムなのかはよくわからん。人間は内発的な自己に統治されることができるが、それは凄まじいトレーニング(脱構築と創造の繰り返し)を必要とするので若いうちからできると思うな、と思ってるのかもしれん。人類総哲人化計画。
ここでいう「スピってる」はある種の自己完結性みたいなものを想定してます。ズレてる、浮いてる、スベってる奴が、それを自覚しないままそのスベリを完遂する、みたいな。nozakimugai.icon
アンチ・メタ認知というか。
それは分散的なものであるのと同時にある種の自己統治でもあるはずで、そういう意味での「スピり」がマチズモに陥ることなく軽やかに、しかし批判的に社会と対峙するヒントにならないかなと。
「メタ認知」の嫌さでもそんな話をしたけれど、最近の僕の思想において「間違いを完遂する」みたいなことの重要さが増している気がする。要は自分の思想や言説を絶えず再帰的に反省し続けて「アップデート」していくという図式では弁証法は生まれないから、各々がそういうズレやサムさ、間違い(=抽象的な意味での「スピ」)を抱えたうえで弁証法的にぶつかり合った方がいいだろう、という。 そういう意味では僕は「孤独の補完装置としてのスピは許さない」かもしれない。スピは殴り合って初めて意味を持つ。
孤独な自己反省、内省によって生まれるものなど何もないと思っていて、マッチョな「アップデート」主義は他者との批判的なコミュニケーションが始まる可能性を極限まで減らすためのものでしかない。だったらアップデートしないまま殴りあったほうがいいんじゃないかという。
自己啓発は自己統治ではない、ということかも。ポジティブな自己統治は他者との弁証法的な対話の中でしか生まれ得ない。そういう対話自体ある種のトレーニングではあるけど、決して筋トレのような孤独なトレーニングではない。それでは何の意味もない。
親密圏に閉じこもるのをやめて公共圏へ出ろ、みたいな言説は一般的だけど、公共圏へ出ても結局そういう自己弁護的にアプデした思想でしか対話できないなら、スピったまま親密圏で殴りあうことからはじめるべきなのでは、という。
というか、クソ言説がここまで蔓延した世の中に真の「公共圏」なんてあるのか?と思っている
身も蓋もないが、いわゆる「弱者男性」的な界隈に対しては「ちゃんと友達を作れ」と思っている節がある。
もちろんそういう友達を持てること、あるいは友達を持とうと思えるほど人間関係に関してポジティブであれるという状況や環境自体が物凄く幸運で、自分の場合、やっぱり教育資本がその根本を支えてくれたという特権性があることは大前提として、だけど。
要は、対話と弁証法へ開かれた自己完結性としての「スピり」を肯定したい、ということかも。